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フィリピン北部

Part6

リンガエン湾上陸以降

1945年1月

航空要員の撤退

駆逐艦梅の沈没


 1945年1月9日、フィリピンルソン島北西部のリンガエン湾にアメリカ第6軍が上陸したことにより、ルソン島の防衛は新たな局面を迎えた.この時、マニラとその北方のクラークClark飛行場に配備されていた日本海軍第1、第2航空艦隊ならびに陸軍第4航空軍(真兵団)の操縦士、整備兵等航空要員の撤退が計画された.レイテ沖海戦の終了により、海軍は艦隊主力を失っており、すでにフィリピンは日本本土防衛の時間稼ぎの場になりつつあった.この際、貴重な航空要員を内地に戻すことは戦略的に重要であると考えられ、一部は輸送機によって運ばれたが、15日現在、海軍だけでも約1000人の航空要員がルソン島に残されていた.しかも、アメリカ軍はリンガエン湾に航空基地を設営し同月22日から台湾に対する空襲を開始していた.ために陸海軍の航空要員は同島北端部のアパリAparri付近への集結を命ぜられ、ここから艦船によって撤退することになった.しかし、制空権はすでにアメリカ側の手に移りつつあり、ルソン島と台湾の間のバシー海峡はアメリカ潜水艦が多くの艦船を沈めていた.このため、輸送船による輸送は困難と判断され、南西方面艦隊司令部は駆逐艦による撤退作戦を計画した.

 1月31日午前8時、第31戦隊所属の駆逐艦3隻が台湾南西部の高雄を出港、アパリ防衛に使用される高雄陸戦隊を乗せてアパリ近郊のパトリナオ村を目指して24kntの高速で南下した.同地が指定されたのは空襲を避けるためであったが、アメリカ軍の空襲がないと判断される天候の場合は、直接アパリに向かって航空要員を収容することになっていた.

 この3隻は、同月9日、第43駆逐隊司令に着任したばかりの吉田正義(海兵50山口)大佐の座乗する駆逐艦梅Ume(艦長大西快治[海兵61]少佐)、楓Kaede(艦長諸石高[海兵64佐賀]少佐)、汐風Shiokazeであった.の2隻はともに松級駆逐艦に属する船団護衛用の駆逐艦で、後者は3ヶ月前の前年10月30日の竣工、同月20日に訓練部隊である第11水雷戦隊から第31戦隊第52駆逐隊に編入されたばかりであった.残る汐風は1921竣工の老朽艦で、駆逐艦の不足から旗風とともに前年12月26日に第30駆逐隊に編入されたものであった.

 収容人数は各隻250名、計750名であり、うち海軍が500名、陸軍が250名の予定であった.高雄=アパリ間は直線距離で約530km(300nm)あり、24kntで12時間の航程であったが、潜水艦を避けるためのジグザグ航行を考慮に入れると2時間程度の上乗せが必要であると考えられていた.

 午前10時、バシー海峡に到達したばかりの3隻は水平線上に見え隠れするアメリカ軍哨戒機1機を発見した.吉田司令は西方への転針を命じて所期の目的を隠そうとしたが、哨戒機は欺かれずに追跡を続けたため、3隻は南方へ針路を復した.

 午後3時、台湾最南端のガランピ岬の南方約35km(22゚30'N/120゚00’E)付近に到達したところで、駆逐隊はアメリカ第38爆撃航空団所属のB25双発爆撃機12機による攻撃を受けた.右舷30度から突っ込んできた爆撃機は先頭のに左舷側から攻撃を集中、は主砲指揮所、前部砲塔と艦橋間の甲板に直撃弾を受け、後者は下甲板を貫いて爆発したため機械室を破壊されて航行不能となった.午後3時18分、今度はが船首楼甲板に被爆、長さ3m、幅5mに渡って破壊された.さらに汐風も至近弾により右舷高低圧タービンの前部軸受けならびに揚錨機を損傷、速力が低下した.空襲は約30分間で終了したが、同時に攻撃してきた第35戦闘航空団所属のP47戦闘機4機による銃撃も含め乗員約80名、乗員(便乗者を含む)54名が死亡した.

 午後6時、汐風は至近距離からの喫水線付近への砲撃を開始、自沈させた.吉田司令、大西艦長を含む生存者は残る2隻に救助され、作戦は中止された.

 翌31日、同じ目的で第1輸送戦隊の第115号輸送艦第28号駆潜艇が高雄を出港したが、2月1日、ルソン島北方のカイミク島付近で空襲に遭遇し両艦とも爆撃により航行不能になった.この結果、水上艦艇による救出は困難と判断され、潜水艦による輸送が計画されたが、呂46が約40名を救出したに留まった.一方、航空機による輸送も実施されたが、約400名を台湾に輸送したのみであった.2月4日、ニコルス飛行場周辺にまでアメリカ軍が進出してきたため、航空機による撤退は2月上旬で打ち切りとなり、以後、フィリピンに残された航空要員は陸戦部隊に編入された.

 この後、は馬公で、汐風は基隆で応急修理を受け2月に内地に回航、修理された.両艦はともに戦争を生き残り、特別輸送艦として復員輸送に従事、汐風は解体されたが、は中華民国(台湾)に賠償艦として上海で引き渡され衡陽(ホン・ヤン)と改名、1962頃まで使用された.

松級駆逐艦.梅Ume.楓Kaede. 峯風級駆逐艦.汐風Shiokaze.

 南西方面海軍作戦によると1月9日から14日までに司令部、搭乗員、整備員計125名が空輸された.途中、9日にバシー海峡で作戦していたハルゼーの率いるアメリカ第38任務部隊の攻撃を受け、陸上攻撃機3機が撃墜された.

 日本水雷戦史では午前9時出港となっているが、艦長たちの太平洋戦争続編では8時出港になっている.ただし、前者には出港2時間後の午前10時と言う記述があり、8時出港とした.

 レイテ海戦以後のフィリピン方面海上作戦ではトリナオとなっているが、日本水雷戦史ではトリナオとなっている.しかし、この地名はエンカルタ百科事典、ブリタニカ国際地図にも記載されておらず、どちらが正しいのか不明である.

 艦長たちの太平洋戦争続編中の艦長大西少佐の回想によるとB24爆撃機24機、P38戦闘機14機となっており、南西方面海軍作戦によると午前8時にB24爆撃機24機、P38戦闘機14機、1時間後にB25爆撃機、P38戦闘機各6機となっている.また、Chronology of the War at Sea 1939-1945によると中国を基地にしていたアメリカ第14航空軍所属機によるとなっている.ここでは日本水雷戦史の記述を採用した.

この島もブリタニカ国際地図に記載がない.

 参考文献・資料

 ・戦史叢書、南西方面海軍作戦第二段作戦以降(防衛庁防衛研修所戦史室著1972朝雲出版社刊)P462-3.

 Chronology of the War at Sea 1939-1945(J. Rohwer & G. Hummelchen, 1992. Naval Institute Press)P332

 ・日本水雷戦史(木俣次郎著1986図書出版社刊)P613-5.

 ・艦長たちの太平洋戦争続編(佐藤和正著1984光人社刊)P97-100.

 ・ブリタニカ国際地図(1971TBSブリタニカ刊)

 レイテ海戦以後のフィリピン方面海上作戦(http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu.htm)

 太平洋戦争年表 1945年(http://members.tripod.co.jp/nishinom/dic/data/p1945.html)

 海軍兵学校(http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/hyoushi.html)

 Long LancersIJN Kaede: Tabular Record of Movement(http://64.124.221.191/kaede_t.htm)

 Kaede(http://www.angelfire.com/ia/totalwar/ijnKaede.html)

 Long LancersIJN Ume: Tabular Record of Movement(http://64.124.221.191/ume_t.htm)

 Ume(http://www.angelfire.com/ia/totalwar/ijnUme.html)

 Long LancersIJN Sawakaze: Tabular Record of Movement(http://64.124.221.191/sawaka_t.htm)

 STATUS OF MAJOR COMBATANT SHIPS OF JAPANESE NAVY(http://www.warships1.com/Japan1.htm)

 U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945(http://www.navsource.org/Naval/1945.htm)

 America at War World War II (1945)(http://www.semo.net/suburb/dlswoff/wwii1945.html)


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