Down

 日本近海におけるアメリカ潜水艦(1941-2年) 

アメリカ潜水艦の日本本土襲撃

(1) (2) (3) 

UpDown

 (1)

 1941年12月31日、ニミッツの太平洋艦隊司令長官就任式典が潜水艦(SS209)グレイリングの艦上で行われたのは有名な話である.これは、真珠湾攻撃により壊滅的損害を被ったアメリカ太平洋艦隊に式典を行う余裕がある艦艇がなかったからと説明されることが多い.しかし、その前に、ニミッツは潜水艦乗りであったし、長男もアジア艦隊の潜水艦(SS187)スタージョンの乗員としてフィリピンにいた.

 そして、そのニミッツに残されたものは一握りの空母と潜水艦だけだった.その効果的な使用法として考えられたのは、無制限潜水艦作戦であった.

 これは国際条約違反であったが、すでにドイツ日本も無視しており、アメリカのみが守る必要はないと考えられたのである.

 1941年12月11日、潜水艦(SS211)ガジョンが、13日には(SS180)ポラックが、そして14日には(SS179)プランジャーが、その第一着として真珠湾を出港した.

 これらの艦には潜水艦用の新しいMk14魚雷とSDレーダーが装備されていたが、この新型魚雷にはMk6起爆装置exploderと呼ばれる爆発装置が装備されていた.これは、魚雷に対する耐性を大幅に強化した戦艦に対応したもので、相手の艦底部で起爆するように磁気に反応するようになっていた.

 この中で最初に哨戒海域に到達したのはグレンフェル(USNA1926)少佐の指揮するガジョンだったようである.同艦は、大晦日に九州沖に到達すると、早速目標を発見している.

 また、真珠湾が攻撃された翌々日12月9日にサン・フランシスコから真珠湾に到着したばかりで1939年からモーズリー(アナポリス1925卒)少佐が艦長を務めていたポラック小笠原諸島近海におり、そこで見かけた駆逐艦に魚雷2本を発射したが、命中しなかった.その後、ポラックは年の明けた1月3日に見つけた貨客船泰山丸(3925T)にも魚雷1本を発射したが、これも命中しなかった.

 1月5日、三宅島*の70゚38nm沖(34゚15'N/140゚08'E)で見つけた4000T級貨物船に対して、モーズリーは艦首の魚雷発射管にこめられていた魚雷6本すべてを発射した.

 日本側の記録によると、これは特設砲艦平壌丸(2627T)であった.

 平壌とは、現在、朝鮮民主主義人民共和国の首都となっているPyongyangの日本名である.そのことからも分かるように、朝鮮郵船の所有する貨物船であったが、開戦直前に海軍に徴用され120o砲4門等を装備する特設砲艦になっていた.

 同日15時に横須賀を出港した平壌丸は、福田弘二(兵48召)少佐の指揮下に、当時はトラック諸島と呼ばれていたチューク環礁に向かって、荒天を衝いて航行していた.ラバウル攻略に向かう第6水雷戦隊に増備する機銃等を輸送する目的であった.

 21時25分、伊豆大島三原山の126度52海里を航行中の平壌丸の船首右舷部に魚雷1本が命中した.ただし、この魚雷は不発であり、一番船倉に若干の浸水があっただけだったが、モーズリーは6本中3本が命中し、この貨物船を轟沈させたと間違った.もっとも、日本近海でアメリカ艦が攻撃を成功させた最初の例であることに間違いはなかった.

 平壌丸は砲弾5発をたたき込んだ後に反転し翌6日11時に横須賀に入港し入渠修理を行った.

*Miyako Islandと書いた資料もあるが宮古島沖縄中国寄りで、遠く離れている.

UpDown

(2)

 1月7日朝、ポラック伊豆半島南方沖で貨物船を発見し魚雷を発射した.

 これは中村汽船の貨物船第1雲海丸(2226T)で、これも開戦直前に海軍に徴用され特設給炭船となっていたものであった.徳山から横須賀への輸送任務に従事後呉へ回航中であった.

 記録によると、第1雲海丸は7日午前7時55分、伊豆半島南岸の神子元島灯台の190゚約16nm沖(34゚27'N/138゚59'E)を航行中、左舷船首に魚雷を受け、船員1名が死亡、航行不能となった.

この報告を受けた横須賀鎮守府は駆逐艦沢風を派遣、救難船栗橋こうせい丸、雑役船第7横須賀も救難に向かった.うち、同日13時、横須賀を出港した沢風は快速を利して、17時15分には現場に先着、第1雲海丸の状況を確認した.

その結果、第1雲海丸は第2船倉左舷前部に命中した魚雷の爆発により、船橋より前が折れ15度の傾斜で海中に垂れ下がっていた.そして、その影響でスクリューが露出しており、航行不能に陥っていた.このため、第1雲海丸の准士官1下士官兵13と船長以下乗員39の計53名全員は船体を放棄して特設運送船明天丸に移乗済みであった.

この明天丸は前日に横須賀を出港後南洋に向かっていたもので、救出した乗員を館山へ輸送後グアム第6水雷戦隊に駆逐艦弥生に機銃等を渡しているので平壌丸と同様の任務についていたか、代船だったのかもしれない.

ただ、第1雲海丸の船体は放棄されたが、水密構造は機能しており、機関部等は無傷であった.このため、しばらくは沈没の可能性は薄いと考えられたが、洋上での強制排水は困難であり、海上は荒れてきていた.したがって、早急に静海域に曳航して、破損部分から切断することが考えられたものの、沢風の能力では曳航はできそうになかった.

---------------------------------

9日0時50分、ポラックは水上に6000T級と思われる貨物船を発見し水上航送で接近し1時30分には魚雷2本を発射したが、命中しなかった.

これは帝安丸(5387T)で、もともとは前年4月22日にメルボルンからマニラ経由で上海に到着したところをイタリアが接収したユーゴ・スラヴィア貨物船トミスラフTomislavである.接収は、同月17日にユーゴ・スラヴィアはドイツ軍の侵攻により降伏し、イタリアも同国に宣戦布告していたためであった.

その後、この船はヴェネツィア・ジュリアVenezia Giuliaと改名したが11月15日に日本が購入し帝安丸と改名して帝国船舶に引渡した.帝という文字が船名に入っているのはそのせいであるが、帝国船舶は国策として海外船舶の購入等を行っていただけの会社なので、実際の運航は大同海運が行っていた.

1月5日、帝安丸は室蘭を出港した.目的地は横浜で、石炭輸送のためであった.

9日4時40分、モーズリー艦長は浮上したまま艦尾魚雷発射管から2本を発射し1本が機関室に命中15分間で船尾から沈没した.おそらく、この船が日本近海でアメリカ軍が沈めた最初の船である.

帝安丸の沈没地点は千葉県八幡埼の東南東16nm沖、犬吠埼の155度32nm(35゚00'N/140゚36'E)で、ボートで脱出したイタリア人船長以下乗員30名と無電技師1名を沢風が救出している.

日本側の記録によると死亡者は魚雷命中時と思われる1名のみだが、Con la pelle appesa a un chiodoによると8名のイタリア人が死亡、船長以下が負傷したという.

帝安丸を撃沈したポラックは、その後1時52分に別の船影を発見し3時45分に最後の魚雷を発射した.しかし、この魚雷は外れたのでモーズリー艦長は撤退を決定した.

そして、この日も第1雲海丸は海に浮いていた.ただ、北北西方向に船体は流されており、同日15時現在の位置は犬吠埼の120度70nmであった.その上、風速24-5m/sの風が吹いており、7-8mの高さの波が立っていた.このため、以下はこれ以上の救難作業は無理と判断され、反転を命ぜられた.

UpDown

(3)

10日ガジョン宮崎県都井岬の東方50nm(31゚56'N/132゚16'E)で5000T級貨物船を発見し撃沈を報じた.ただし、該当する日本船はない.

同日10時、第1雲海丸の救難作業が打切られ、漂流する船体に対して対潜爆弾の運用実験が計画された.しかし、荒天は収まらず、中止になった.

11日14時33分、横須賀航空隊機が千葉県勝浦の104゚180nmで第1雲海丸を爆撃により撃沈処分した.したがって、ポラックが主張していた5-6000T級貨物船の撃沈は、ようやく正確なものになった.

一方、ホワイト(USNA1927)少佐の指揮するプランジャーは、ガジョンポラックの間の海域、紀伊水道の南方海域を担当したが、これまでのところ運には恵まれなかった.

というのは、真珠湾を出港した直後に耐圧船体に水漏れが見つかって引き返しているからである.そして、1月3日には爆雷攻撃を受けているからである.これは、爆雷攻撃を受けた最初のアメリカ潜水艦ということになる.

プランジャーAction Reportによると3日3時15分室戸崎の南西約15nmで駆逐艦らしいものに遭遇している.そして、20時30分、四国沖でプランジャーは突進してくる駆逐艦を発見し急速潜航したが爆雷攻撃を受け、爆発した爆雷の数は24発を数えたが、何とか窮地を脱した.

ホワイト艦長は耐圧船体の水漏れを直していなかったら危なかっただろうと述懐している.うち1発は100m以内という至近距離で爆発しているので、当然であった.

しかし、同艦は粘り強く哨戒を重ね、遂に戦果を上げた.18日、紀伊水道南方海域で7200T級貨物船1隻を魚雷2本で撃沈したのである.

これは興国汽船貨物船栄山丸(4702T)で15日川崎を出港後若松へ航行中だったが、潜水艦警報の発令により御前崎沖に避泊後17日7時に抜錨したものであった.乗員45名全員が死亡した.沈没地点は和歌山県田辺湾の南西36km(33゚30'N/135゚00'E)である.

21日、ポラック真珠湾に帰投した.

27日、ガジョンは情報部が日本側の定時連絡を傍受して得られた推定位置、コースをもとに待ち伏せした伊73ミッドウェーの西方約180nm(28゚24'N/178゚35'E)で聴音探知し潜望鏡視認により発射した魚雷3本中、2本を命中させて撃沈した.ただ、この潜水艦は12日にクェゼリンを出港後真珠湾へ向かっている途中、15日の連絡後消息不明となっていたものであり、ミッドウェーの西方を通過する可能性は低い.このため、同艦の喪失は29日に真珠湾付近でアメリカ駆逐艦(DD393)ジャーヴィス等にソナー探知されて爆雷攻撃を受けて沈んだのが真相ではないかと言われている.

29日、ガジョン真珠湾帰投した.

2月3日、プランジャー真珠湾に帰投して、最初の日本近海でのアメリカ潜水艦の襲撃活動は終了したが17日に事故が起きた.真珠湾で入渠整備中、船体を支えていたブロックが崩れて右舷側に傾斜し船渠の壁に衝突したのである.出渠できたのは4月12日であった.


Since 6 Jan. 2025.

Last up-dated, 12 Jan. 2025.

The Encyclopedia of World ,Modern Warships.

US submarines in waters near Japan, 1941-2.

Ver.1.25a.

Copyright (c) hush ,2001-25. Allrights Reserved.

Up


動画