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フィリピン北部

Part3

レイテ輸送作戦

1944年11月

第6次多号輸送作戦.


 キャビテ工廠でが修復を行っている最中の11月27日10時、第6次多号輸送船団がマニラを出港した.船団は輸送船神祥丸(2880T)と神悦丸(2225T)の2隻からなり、南遣艦隊所属の第4553号駆潜艇第105号哨戒艇が護衛についていた.この2隻は栗林商船所有の戦時標準型貨物船で、陸軍が徴用し使用していたものであった.

 この船団を支援するため、同日20時、第4航空軍はタクロバカンのアメリカ軍飛行場を爆撃、海軍航空隊もこれに協力した.この時、第4航空軍の呑龍重爆撃機は内部に散弾を詰めたタ弾と呼ばれる爆弾を使用したが、これはドイツが対戦車用に開発したものであった.また、これより先、2時45分、輸送機4機に分乗した高砂族の斬込隊のうち3機がレイテ島に侵入、1機が対空砲火により失われたが、残る2機が海岸に胴体着陸した.ただし、アメリカ側の記録には斬込隊が成功した形跡はない.

 同27日、アメリカ掃海艇(AM108)パーシュートと(110)リヴェンジは、カニガオCanigao海峡を掃海した.この海峡はレイテ・ボホール両島間に10km以上の幅で広がっていたが、同海峡には東西60kmに及ぶ大岩礁があり、通過できる幅は約2キロしかなかった.そして、この海峡は東西2水道に分かれており、今回、掃海されたのはその東側水道であった.

 アメリカ軍の上陸したレイテ湾から日本軍の補給拠点であるオルモック湾に向かうには、島を半周する必要があった.しかし、島の北側、サマール島との間のサン・ファニコ水道は非常に狭く曲がりくねっており、レイテ島西部のカモテスCamotes海に派遣できるのは魚雷艇に限られていた.このため、日本側が駆逐艦級の艦艇を使用している事から、対抗上、駆逐艦の派遣が要望されており、オルモック湾への上陸も計画されている事もあって、カニガオ海峡の掃海は絶対に必要であった.

 ただ、この戦略上の要衝が日本側に注目されないはずはないとアメリカ軍は判断していた.また、レイテ上陸時に駆逐艦(DD563)ロスが触雷により行動不能となっており、掃海作業が済み、セブ、ネグロス両島の日本軍航空基地に近い事からタクロバンの航空兵力が整備されるまで、アメリカ側は駆逐艦の派遣を見合わせていたのである.

 しかし、カニガオ海峡には機雷はなかった.日本側が機雷封鎖を行っていたのはセブの海軍基地周辺のみであったのである.これがいかなる理由によるものかは分からないが、重大な失態であった.また、アメリカ側だけではなく、フィリピン防衛を担当する第14方面軍もカニガオ海峡が機雷封鎖されていると信じていた.南西方面艦隊が機雷を敷設してあると通報していたからである.

 それはともあれ、アメリカ側の行動は早かった.掃海当日の夜には、第22水雷戦隊第43駆逐隊司令スミスRobert H. Smith大佐の率いる駆逐艦(DD466)ウォーラー、(465)ソーフレイ、(499)レンショー、(477)プリングルが同海峡を通過してカモテス海に入ったのである.

 この4隻は、同日真夜中の少し前から翌28日1時までオルモック湾南部海岸線を砲撃、オルモック湾南口のポンソンPonson島の北側を西側に抜けた.その時、上空を哨戒していたブラック・キャット(カタリナ)飛行艇がオルモック湾に向かって航行中の潜水艦の存在を報せてきた.

 1時27分、ウォーラーのレーダーはその潜水艦を探知、3分後には各艦は砲撃を開始した.しかし、この潜水艦は潜航せず、照明弾、さらには探照灯の照射を受けながらも艦上の大砲を発射してきた.ただ、その砲撃は照明に幻惑されたのか不正確であり、合計すると20門の127ミリ砲を装備する駆逐艦に対抗できるものではなく、命中弾もなかった.

 同38分、ウォーラーは転舵して潜水艦を乗り切ろうとしたが、潜水艦の状況はそれには及ばないと判断、並走しながら40ミリ機関砲弾を送り込んだ.司令塔や船体を貫いて艦内で炸裂した状況を確認したウォーラーが再攻撃に移ろうとした時、潜水艦は爆発、艦首を空に向けると艦尾から沈没していった.そして、その後の海面には6名の乗員が浮いていた.駆逐艦は捕虜にしようと近づいたが、乗員はこれを拒否するかのように手榴弾らしきものをかざしたので、駆逐艦はこれを諦め、3時30分、同海域を去った.

 アメリカ側はレイテ戦が終了した後の1945年1月、この潜水艦を浮揚しているが、この潜水艦を伊46と判定している.しかし、伊46はフィリピン東方洋上で作戦中に消息不明になっており、この海域にいるはずはなかったのである.事実は、陸軍の潜水艦、正確には潜航輸送艇第2号であった.

 ガダルカナル戦等の戦訓から陸軍は海上輸送用の潜水艦を開発した.うち、1-3号艇がフィリピンに送られており、当時、唯一行動可能であった同艇がレイテ島への強行輸送の目的で使用されている最中、アメリカ駆逐艦に遭遇したものであった.なお、同艇は限界以上に物件を搭載し、多数の人員を乗せていた関係で潜航はできず、武装も37ミリ戦車砲と軽機関銃2挺に過ぎなかった.

 レイテ湾に戻ったウォーラーは駆逐艦レンショー、(DD508)コニイCony、(582)コナーとともに29日から30日にかけての夜、再びオルモック湾に戻ってきた.しかし、湾内には日本の艦船は存在しなかったので、サン・イシドロ半島に沿って北上し沿岸を航行する小型船舶数隻を発見したが、天候の悪化により捜索を諦め、基地に帰投した.

 第6次多号輸送船団がオルモック湾に突入したのは、この間の事である.

 船団は28日11時頃、アメリカ機に発見され、17時15分頃に航空機約10機からなる攻撃を受けたが、19時、損害を受けることなくオルモックに到着した.早速、揚搭が行われ、第26師団は上陸から16日を経て、ようやく弾薬と食料を受け取る事ができたのである.

 もっとも、駆逐艦こそいなかったが、別の脅威が船団に迫っていた.揚塔中、ハローウェルRoger H. Hallowell予備大尉の指揮する4隻の魚雷艇が船団を捜索していたのである.うち、最初に泊地に進入してきたのはPT128、191の2隻である.

 月明かりの中、2隻は港内に停泊する大型哨戒艇を発見、700メートルまで接近した所で、猛烈な砲撃を受けたが、臆せず突入、8本の魚雷の発射に成功した.さらに、ロケット弾を発射して応戦中、巨大な爆発を視認した.2隻は追撃を受けたが、カモテス海で哨戒をしていたPT127、331と合流、ハローウェルは再度の突入を令した.4隻は陸上からのも含め、猛烈な砲撃を受けたが雷撃に成功した後に無事基地に戻った.

 この結果、最初の攻撃で第53号駆潜艇が、さらにPT127の攻撃により第105号哨戒艇が沈没した.なお、後者は10日後に海岸に擱座した状態でアメリカ軍に拿捕され、魚雷艇の基地となったが、もともとはフィリピン政府の密輸監視船アラヤットの後身で、マニラ湾で沈没していたものを日本が浮揚後哨戒艇に改造したものであった.

 翌朝、アメリカ第5航空軍所属のP40、P47がオルモックを空襲した.神祥丸はこの攻撃により波止場に接岸したまま炎上、船砲隊員39船員66名の戦死者とともに沈没、擱座した.一方、神悦丸もこの空襲により傷つき、戦死者も出た.このため、同船は陸揚げ作業を中断、同日5時30分、第45駆潜艇とともにまだ空襲の続くオルモックを出港した.この結果、弾薬250立方メートル、糧食1100立方メートルを陸揚げしたが、搭載物件の一部を船倉内に残したままであり、その中には軍直轄部隊用の重砲も数門含まれていたと言う.

 その後、神悦丸第45駆潜艇はマニラに向かってカモテス海を北上していたが、翌30日11時30分、セブ島東方沖で第5航空軍のB25とP47の空襲に遭遇して2隻とも沈没、第6次輸送船団は全艦船を沈められる結果に終わった.神悦丸の戦死者は備砲隊3名、船員50名と記録されている.


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Last up-dated, 25 Jan. 2007.

The Encyclopedia of World ,Modern Warships.

The Ta-6th convoy.

Ver.1.07a.

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