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フィリピン北部

Part3

IWA様に

レイテ輸送作戦

1944年11-12月

第7次多号輸送作戦(オルモック湾夜戦)


 1944年10月26日、フィリピン(レイテ)沖海戦に敗北した日本艦隊はアメリカ艦隊の追撃を受けていた。ただ、連合艦隊司令部はこの海戦と特攻機の突入によりアメリカ空母7隻を沈めたと判断しており、これに先んじる台湾沖航空戦とともにアメリカ第38任務部隊等戦力の大部分が失われたと考え、アメリカ側の残存兵力は正規空母3、巡洋艦改造の軽空母3、特設空母10隻以上、戦艦10隻内外に過ぎないと判断していた。これを受けた大本営は、フィリピンに兵力を送る好機と判断、苦戦の続くレイテ島に第1、第26師団と第68旅団と言う大部隊を揚陸、連合軍を一挙に排除しようと考えた。同27日、豊田副武連合艦隊司令長官は南西方面艦隊司令長官三川軍一中将と栗田健夫第2艦隊に揚陸支援と直接護衛を命令、多号輸送作戦と名付けられたレイテ島増援輸送作戦が開始された。レイテ湾にアメリカ軍がいる関係で、揚陸地はレイテ島北西部のオルモック湾となり、出港地はルソン島マニラとなった。

 しかし、実際にはアメリカ側の兵力はほとんど損なわれておらず、輸送作戦は沈められるために出港するような状況に陥った。また、現地フィリピンの防衛を担当する第14方面軍司令官山下奉文陸軍中将はルソン島決戦を唱えており、軍事物資も蓄積されていないレイテ島に兵員を送っても無駄であると反対し続けた。にもかかわらず、大本営は輸送の取り止めを行なわず、11月末になってもなお輸送部隊が出港し続けていた。大本営が自らの非を認めず、面子のために作戦の中止を決断できなかったからと言われる。

I.J.N. Matsu class destroyer.Illustrated by Iyapopo.

 ただ、11月初めの第3、第4次輸送作戦で惨憺たる結果に終わった事から、船舶による輸送は困難と判断され、高速艦艇による輸送が主体となり、兵員の輸送よりも軍需品の輸送が主務となった。もっとも、ガダルカナル島で行われたような駆逐艦による輸送は行われず、このような目的のために新造された輸送艦(陸軍ではSS艇)がその中心となった。また、高速、重武装の艦隊型駆逐艦に代わって、船団護衛用に大量建造され、就役始めた松級駆逐艦が護衛任務につくようになっていた。

 駆逐艦もその1艦で、大量建造とはいえ、高角砲を主体とし爆雷を強化して対空、対戦能力を向上させており、機関のシフト配置により沈没しにくい設計となっていた。一方、速力と航続力は減少しており、魚雷発射管も4連装1基を装備するのみであった。予備魚雷も持っていなかったので、有力な水上艦艇と遭遇した時には、それが駆逐艦同士であっても有効な攻撃力はこの4本の魚雷に限られていた。また、劣速ゆえ、逃げ切ることもほとんど不可能であった。

 事実、レイテ、エンガノ岬沖海戦では転落した零戦の収容のために派遣された同型のは、夜間、アメリカ艦隊の艦列に紛れ込んでしまい、一戦を交えることなく撤退している。

 また、11月25日に出港した第5次輸送作戦は空襲に遭遇して大半が沈没、かろうじて生き残った第9号輸送艦も損傷し反転せざるを得なかったが、再度の突入命令を無視して帰投してきた。

 しかし、それらに対する咎めだてはなかったようである。と言うより、咎める事が出来なかったと言う方が正しかったのであろう。実際、が命令を無視して戻ってきた時にも、一部に頭の固い参謀がいて再突入の命令を出さざるを得なかったと言う話を艦長は聞いている。

 もちろん、戦うべき時には勇敢に戦っている。特にネーム・シップのは、同年8月4日、船団護衛中に巡洋艦4隻を中心とするアメリカ任務部隊と遭遇、船団を逃そうとして反転、結果の分かりきった戦いを挑んでいる。この結果、は集中砲火を浴びてあえなく沈没、第2護衛船団司令官、艦長を含むほぼ全乗員とともに沈没している。

 この戦いの場合は犠牲になるだけの意味があっただろう。この作戦においても命令が出ている以上、突入をためらうような艦長はいなかった。ただ、乗員の生死を預かっている以上、犬死は避けたいというのは正直な所であったろう。しかし、状況は悪化の一途をたどり、第7次多号輸送作戦の直前に行われた第6次輸送では、揚陸には成功したものの、空襲により全艦船が失われいる。

 また、11月25日には、の属する第43駆逐隊の上部部隊である第31戦隊司令部が全滅していた。軽巡洋艦五十鈴が雷撃を受けて艦尾を喪失した後、代わりに旗艦となった駆逐艦霜月もまた雷撃を受けて沈没したが、その際、司令官江戸兵太郎少将を含む司令部全員が戦死したのだ。

 制空権も制海権も失った今、出撃をしても生還は期しがたかった。第7次輸送作戦に参加するはそれまで大切に保存してあったあるだけのアルコールを出して宴を開いたが、それは文字通りの送別の宴であった。

 しかし、この輸送作戦の滑り出しは意外にも順調であった。

 輸送部隊は3つのグループに分けられていたが、11月28日にマニラを出港した陸軍第1、2機動輸送隊所属のSS艇第5、11、12号の3隻は駆潜艇第20号に護衛された第1梯団は、第5号艇が座礁した以外は突入に成功、オルモック東方のイピルへ第1遊撃中隊を揚陸させた。また、11月30日にマニラを出港したSS艇第10、14号の2隻からなる第3梯団も12月1日にイピルに到着、第1遊撃中隊の残部と補給物資を揚陸した。

 しかし、第1梯団は空襲に遭遇しながらも12月2日にはマニラに帰着したが、第2梯団は魚雷艇の襲撃に遭い両艇とも撃沈された。

 12月1日18時、野戦高射砲大隊、独立工兵大隊を搭載した海軍の第9140159号輸送艦からなる第3梯団は、と修理を終えたに護衛されてマニラを出港した。途中、島影に隠れて時間調整を行なった梯団は2日23時30分、オルモック湾への突入に成功、イピルへの揚陸を開始した。これらの輸送艦は艦尾が傾斜しており、急速揚陸が可能であった。

 この時、1隻の大発がに接近してきた。大発には3週間前の11月11日、第3次輸送部隊の護衛中、オルモック湾を目前にして爆撃を受け、早川幹夫第2水雷戦隊司令官とともに撃沈された駆逐艦島風艦長上井(うわい)宏(兵51)中佐と上村嵐機関長、それに第2水雷戦隊司令部の生存者6名が乗っていた。うち、上井艦長は大腿部に銃撃を受けて重傷の身の上であった。8名をに移譲させると、大発は陸上に向かう陸軍の参謀を乗せて舷を離れた。

 が艦影を発見したのは、それからしばらしての事であった。距離わずかに1万メートル、アメリカの駆逐艦らしく、その数は3隻であった。この時、も桑も6ノットと言う微速で反航態勢にあり、の南方約300メートルにあった。艦長宇那木勁(兵64)少佐は第3戦速24ノットへの増速を下令するとともに艦影に艦首を向けたが、速力はすぐにはあがらなかったので舵の効きが悪く、接近してくるレイテ島の山々を仰ぎ見ながら座礁するのではないかと心配した。

 この間、は、艦影発見の電光信号を送りながら、まっしぐらにアメリカ艦に向かって行った。艦長山下正倫(兵53期)中佐は42歳、海兵64期出身でまだ29歳の宇那木少佐とは一回りも違う年齢であった。

 開戦時、南遣艦隊副官、次いで艦政本部部員を務めていたが、第一線勤務を希望しての艦長となった人物である。このため、植物名を採用していた事から雑木林と俗称されたこのクラスの駆逐艦の中では、唯一の50期代であり、唯一の中佐艦長であった。クラス・メイトからは「行き足が強い」と評された中佐であったが、それだけに同型艦の20代と若い艦長達の信望を集めていた存在であった。

 同型艦艦長石塚栄(兵63神奈川)少佐はレイテ、エンガノ岬沖海戦で被爆後落した際、わざわざ近づいてきて声をかけてくれたので非常に助かったと言う回想を残している。

 この時も、第43駆逐隊司令が作戦に参加していないため輸送部隊の指揮官を兼ねていたが、明らかに自らを犠牲にしても輸送艦を救い、揚陸を成功させようと言う意志の表れであった。しかし、この行為は3対1の劣勢、しかも大きさも装備も明らかに劣っている艦を率いての突撃でもあった。

 これらはザームJ.C. Zahm中佐の率いる第120駆逐隊の駆逐艦(DD692)アレン・M・サムナーAllen M. Sumner、(693)モールMoale、(695)クーパーCooperの3隻であった。フリーズマンW.L. Fresman大佐の率いる第60駆逐連隊に属するこれら新鋭駆逐艦は第7次輸送部隊を発見したと言う航空偵察の報告により、12月2日18時29分にレイテ湾を急遽出港してきたものであった。

 ザーム中佐の採用した陣形は横陣であった。3隻の属するアレン・M・サムナー級は127ミリ連装砲塔を3基持っているが、うち2基は艦首にある。横陣であるから艦尾側の1基の使用は難しいが、横腹を相手にさらさないと言う利点がある。

 一連のソロモン海での戦いで何度も苦渋を飲まされた日本の魚雷、長槍Long Lanceと呼ばれた大型魚雷に対抗する一つの方策であったが、それでも3隻の駆逐艦が集中できる砲は12門となる。

 松級駆逐艦の装備する127ミリ高角砲は3角であるから、2隻で6門。すなわち、アメリカ側は倍の火力を集中する事ができた。なお、アメリカ側の装備する38口径127ミリ砲の発射速度は毎分14発であり、日本側の45口径127ミリ砲のそれは毎分10発である。

 しかし、アメリカ側が遭遇した最初の相手は航空機であった。連絡の不手際でもあったかも知れないが、駆逐隊の上空には制空権を握っていたはずの連合軍機は1機も飛来しなかった。23時8分、アルブエラ沖に達した駆逐隊の上空に飛来したのは、日本の夜間戦闘機月光であった。わずか2機であったが、セブ島を発進したこの双発機は60キロ爆弾を投下し、後方から何度も銃撃してきたのである。アレン・M・サムナーに落とされた爆弾は至近弾となって艦を小破させ、モールは銃撃により2名の戦死者と22名の負傷者を出した。

 3日0時過ぎ、第120駆逐隊はオルモック湾に到達しレーダーが艦影を捉えた。距離1万1千メートル。月齢は16で、海面は凪いでおり、6ノットの風が湾内を吹き過ぎていた。ただ、この直後に雲が出てきた関係で、海上は暗かった。

 この頃には日本側もレーダーを装備するようになっており、松級も新造時から装備していたが、探知していたと言う情報はない。彼等の装備していた22号電探の有効距離が1万7百メートルと言われるので、測定限界よりほんの少しだけ外にあったのかもしれない。ただ、対空戦闘の様子はの艦上からも観測されているので、アメリカ側の攻撃が奇襲気味になったのは、やや解せない。

 レーダー探知の9分後、北上する第120駆逐隊の中で最初に砲撃を開始したのは3番艦のクーパーである。この艦は横陣のもっとも東方にあり、最初に目標となった桑に最も近かったのであろう。次いで、最も西側にいた1番艦アレン・M・サムナーも砲撃を開始したが、右舷側に雷跡を発見して回避運動に移った。

 この魚雷がのものか、アメリカ側の誤認によるものかは分からない。ただ、は艦橋左舷、艦後部の2番砲塔と次々に被弾、後部から発生した火災が中部から前部に順次広がり、左舷に30度ほど傾いていった事が分かっている。左舷側に被弾している事から考えて、はアメリカ駆逐隊の東側を南下していたが、途中で反転、同航戦を挑んだものと思われる。そして、圧倒的な火力の前に沈黙し、艦首を直立した状態で沈んでいった。0時30分頃の事である。

 その頃、ようやくは360度回頭しアメリカ駆逐隊の前方を南下していた。無論、3門しかない127ミリ砲を連続発射しながら24ノットで突進していったのである。を撃沈したアメリカ駆逐隊は、当初からを目標としていた2番艦モール以外の2隻も目標を変更してきたので、の周囲には水柱が林立した。ただ、付近に散在する島影にレーダーが幻惑されたのか、命中弾はまだない。

 もっとも、この島嶼群はの航行も困難にしていた。前回の輸送作戦で爆撃を受けた際に破壊されたジャイロ・コンパスを復旧できないまま出港したので、磁気コンパスしか使えるものがなかったのである。このため、宇那木艦長は座礁を恐れ、航海長の高井大尉に前は大丈夫かと念を押し続けたと言う。

 その間、先任将校でもある水雷長志賀博大尉は魚雷発射のチャンスを狙い続けていた。本来、4本発射できるはずの魚雷のうち1本はオルモック湾に入った際に誤って発射してしまっていた。兵器点検時に水雷科員が誤って発射弁を操作してしまったのだ。したがって、残る魚雷は3本しかない。しかも、発砲の閃光に目がくらんでタイミングがつかめない。ようやく、発射できる態勢に持ち込めたが、今度は魚雷が発射できない。電気系統の故障で、艦橋の発射装置を作動させても魚雷が飛び出さないのである。

 この時、両者の間隔は非常に接近していた。127ミリ高角砲はすでに水平に近い状態になっており、右舷の25ミリ機銃も発射を開始するほどであった。当然、アメリカ側も発射してくるが、不思議と命中弾はない。その時、海上からに応援を送る声が聞こえた。海上を泳いでいるの生存者であった。は、いつの間にかの沈没地点の近傍を通過していたのである。

 しかし、発射装置は直らない。しかたなく、艦橋と発射管の間に伝令を置き、懐中電灯の合図とともに手動で発射する事になった。そのような中で、魚雷が2本しか発射できなかったのは仕方がないであろう。目標までの距離はわずかに6000メートルである。

 駆逐艦クーパーは燃え盛るから接近してくるに目標を変更した。その1、2分後、同艦の右舷中央部、第2煙突直下で爆発が起き、巨大な水柱が上構の上まで吹き上がった。衝撃は艦を真二つに切断し、右舷に転覆したクーパーは急速に沈没した。爆発から沈没までわずか36ないし51秒、乗員の約半数が艦から脱出できたのが奇跡とも言えるような短い時間であった。

 これは、もちろんの発射した93式酸素魚雷によるものであったが、アメリカ側にはそうは考えなかった。その直前、アレン・M・サムナーは魚雷を回避していたにもかかわらず、機雷によるものだと思った者もいたし、潜水艦によるものであると考えた者もいた。2日前に陸軍の輸送用潜水艦が近海で沈められた事があり、そこからアメリカ側は日本の潜水艦が付近を遊弋していると判断していたからである。そこへ通りかかった大発4隻を魚雷艇と見間違った上、日本機による攻撃もあった。

 この日、上空にあった日本機は合計で3、4機に過ぎなかったが、アメリカ側は9‐10機を撃墜したとしているので、航空機の数も過大に捉えていたようである。

 さらに、モールは砲撃を受けたとするが、モリソン戦記では陸上砲台からのものとしている。擱座した艦艇を日本軍は砲台にしたと言う現地ゲリラの報告に従ったものであるが、の砲撃によるものかも知れない。

 そのような状況下、航空機の支援もなく、基地から遠く離れた海域で作戦を続行するは極めて危険であると考えられても不思議ではなかったのである。したがって、ザーム司令が撤退を決定したのは奇異でも何でもなかった。

 2隻の駆逐艦が南方に下がり、見捨てられたクーパーの生存者は海上を漂流するか、海岸に泳ぎつくしかなかった。この漂流の間にクーパーの艦長ピーターソンMell A. Peterson中佐は珍しい体験をしていた。同じく、夜の海を漂っていたの生存者と英語で会話したのだ。ただ、どのような会話がなされたかは記録に残っていない。

 3日午後から夕刻にかけて、ポンソンPonson島から飛来したカタリナ飛行艇がクーパーの生存者56名を救助し、別のカタリナが48名を拾い上げた。他に陸岸に泳ぎ着いてフィリピン人ゲリラに保護された者や魚雷艇に救助された者もおり、生存者は合計で168名に達したが、士官10名、水兵181名が死亡していたので、それでも乗員の半数に満たなかった。

 一方、やはり沈められた桑の生存者も海上を漂っていた。そこへが近づいてきた。しかし、は停止しない。救助できるような状況になかったからである。

 クーパーを沈めた後、は反転しオルモックに向かった。その直後、1発の砲弾が左舷中央部喫水線付近を貫いた。砲弾自体は不発であった。下士官1名が負傷した以外の人的被害はなかったが、砲弾は前部機械室を貫通して右舷側で停止していた。そして、喫水線近くの破孔から前部機械室に海水が浸入してきた。

 機関停止と前部機械室からの退去が命令され、艦は防水に努めたが浸水は止まらない。左舷側に傾きだした艦の傾斜は、ついに30度に達し、甲板上を歩くのも困難であった。ただ、浸水は前部機械室のみで食い止められ、後部機械室の使用により右舷機は使用可能であった。アメリカ側はすでに撤退している。

 しかし、最大の問題は復水器であった。復水器は関連施設とともに、前部機械室にあったが、これが使用不能となった。したがって、ボイラーへの給水が出来ない。給水が行われないと蒸気を送れない。それでは艦は動けない。予備の真水も残り少ない。復水器の予備もない。海水を焚くしかないのだが、それでは4−5時間程度しか持たない。ボイラーが駄目になるからである。艦長は友軍の展開するレイテ島西方のセブ島に乗り上げて砲台にするしかないと考えた。

 揚陸を終えた第9号輸送艦と合流したのは、その後である。同艦から真水を補給すればと言う意見が出て、は9号に横付けした。傾斜した状態、しかも片舷機しか使用できない状態ではあったが、横付けは一回で成功した。

 輸送艦の側では、の状態を見て艦を放棄するものと思った。救助されていた第2水雷戦隊の参謀が移乗してきたから余計である。しかし、状況を知ると手動ポンプを使って補給作業を開始した。そこへ荷役を完了した第140号輸送艦が近づいてきた。

 宇那木艦長は同艦に桑の生存者の救助を要請したが、夜間、探照灯もつけずに漂流者を捜索するのは困難な事である。その上、時刻はすでに3時になっている。夜明けまであと2時間しかない。

 もう1隻、第159号輸送艦が荷役を完了して沖に出てきた。これ以上の時間的余裕はない。一等輸送艦である第9号はともかく、残る2隻の輸送艦は二等輸送艦である。艦も小さいが、速力も低い。宇那木艦長は両艦に先行を命じた。そして、陸上に対して大発を出して桑の乗員を救助するよう発光信号で依頼するとともに、輸送戦隊、南西方面艦隊、オルモック基地に対して緊急信を発信した。現在の状況、今後の予定を報せるとともに、直掩機の派遣を要請するものであった。

 予定せざる補給を終えたは、第9号輸送艦とともに先行する2隻を追いかけ、夜明け少し前に追いついた。桑の生存者と遭遇したのはこの間の事のようである。宇那木艦長は救助のために停止し艦載艇を降ろしていたならさらに1時間を要する、艦は左舷に傾斜したままである、右舷機のみで航行しているため、速力は落ちている、これ以上の遅延は航空機の攻撃に艦をさらすことになり、全滅も考えられる。そのように考え、あえて救助しない事とした。苦渋の決断であった。

 海上を漂っていた桑の生存者は8名であった。彼等は声を上げて僚艦の名を読んだが、は停止しない。続いて、3隻の輸送艦が彼等の脇をすり抜けていく。これまでと思った時、突然、1隻が停止、カッターを降ろした。最後尾を走っていた輸送艦第140号であった。ただ、この事は宇那木艦長の回想の中には登場しない。先頭を走っていたため気がつかなかったのか、黙って命令違反を見逃したのかは分からない。

 それはともあれ、九死に一生を得た彼等であったが、重症の2名はマニラで入院、残る6名はマニラ市内の修道院で待機中、陸戦隊に編入され、翌1945年1月9日、ルソン島リンガエン湾に上陸してきたアメリカ軍との戦闘に巻き込まれた。ただ、その内の1人、山本貢前部主砲員は重病に陥り、その5日前の同5日、空襲下のマニラを出港した病院船第2氷川丸(旧オランダ船オプ・テン・ノール)が収容した737名の患者の1人として内地に送還された。2月23日にはマニラがアメリカ軍に奪還されている事を考えると、幸運としか言いようがない。もちろん、フィリピンを出港した病院船はこの船が最後である。

 2000年に刊行された体験集の中に収められた同主砲員の回想によると、他に陸上に泳ぎ着いた者がおり、直後にアメリカ軍がオルモックに上陸してきたものの、数名が戦後まで生き延びる事ができたと言う。この一握りの人々が、現在までに判明している桑の全生存者であるが、正確な所は分からない。

 3日朝、は傾斜した状態のまま、夜明けを迎えた。雲一つない快晴の空であったと言う。徹夜明けの目にまぶしく映る晴れ渡った空に9機の航空機が発見されたのは、それからしばらく経ってからである。全乗員は覚悟を決めた。対空戦闘が下令され、艦は最大戦速に増速した。しかし、航空機は攻撃してこない。零戦であった。彼等はレイテ島西方の危険海域を脱するまで上空にあったが、やがて基地に帰投して行った。当時、燃料欠乏の折柄、上空に直掩機が現れるのは非常に珍しい事であった。

 アメリカの大型機1機が出現したのはその後、昼頃の事である。触接を続けるこの機に対して、は高角砲を発射して追い払ったが、その時、不思議な事が起こった。艦の傾斜が直ったのである。喫水線近くにあった破孔が燃料等の消費により海面上となり、そこへ転舵と砲撃の衝撃により自然と排水されたからである。浸水量は約80トンと推定されていたから、これは非常な幸運であった。

 夕刻、は島影に停泊して輸送艦9号から真水を受け取り、翌4日午後、マニラに帰着した。桟橋には輸送戦隊司令官曽爾(そじ)章(兵44島根)少将が待ち受けていた。

 曽爾少将は3つの海戦に巡洋艦の艦長として参加した歴戦の人物である。ただし、武勲に恵まれたのはバタヴィア沖海戦だけである。ミッドウェー海戦では艦長を務めていた最上が姉妹艦三隈に衝突して艦首を失った。さらに空襲を受けて、三隈が沈没、最上をトラックまで自力航行させたが、満身創痍となって91名の乗員を失っている。那智艦長の時にはアッツ島沖海戦でアメリカ艦隊と交戦しているが、あまりの不手際に艦隊司令長官が更迭されると言う海戦であった。第1次キスカ撤収作戦にも参加したが、最後の最後に霧が晴れて引き返さざるを得なかった。1943年9月に舞鶴鎮守府参謀長に転出したが、那智艦長時代の約10ヶ月間、アリューシャンのただ暗澹たる海を眺めてきた。

 10月25日、スリガオ海峡海戦でかつての指揮艦最上は沈没したが、その原因となったのはもう1隻の指揮艦であった那智との衝突であった。そして、11月5日には那智も空襲を受けて沈没している。場所はこのマニラであり、わずか1ヶ月前の事である。そのような経歴の性か、曽爾司令官は人情味のある人物であったようだ。前回、損傷したが帰還した際にも桟橋まで出迎えている。その時、命令に違反して戻ってきた宇那木艦長を温かく迎えている。そして、今回も無事に戻ってきた事を喜んで隠そうともしなかった。もっとも、宇那木艦長の胸中は桑の山下艦長をはじめとする人々、置き去りにしてきた生存者の事を忘れる事が出来ず、慙愧の思いで一杯であったようだ。したがって、大河内南西方面艦隊司令長官と差し向かいで夕食を取ると言う栄誉に浴しても、彼はそんな事より艦に戻って乗員と痛飲したかったと述懐している。

 12月5日、キャヴィテ工廠に回航されたは応急修理を行った。破孔を塞ぎ、復水器を修復したが、ジャイロ・コンパスの修復は行われなかった。船体各部の損傷もそのままであった。ともかく傷ついた艦を洋上に出そう。それだけが目的であった。

 それでも修復には10日間を要した。がマニラを出港したのは15日である。単独での出港であった。前部機械室の修復ができなかったので片舷機のみの航海であったが、それでも21ノットを発揮可能であった。ただ、台風の接近により艦の運航は困難を極め、高雄に到着するのに3日を要した。

 その後、基隆に回航されたはシンガポールから来たタンカーを護送して内地に戻った。門司入港は、翌1945年元旦である。翌2日、呉に回航、回天搭載艦に改造されて敗戦を迎えた。その間、2月28日から3月18日までの約半月間であるが、は第31戦隊司令官鶴岡信道(兵43)少将の旗艦を務めている。ただし、この時、同艦は修理中であった。

 戦後、は特別輸送艦となり復員輸送に従事、1947年にシンガポールでイギリスに引き渡され解体された。宇那木艦長は特別輸送艦時代の艦長も務めたようであるが、1946年9月に依願免官となっている。

主要参考文献

書籍

佐藤和正:艦長たちの太平洋戦争(続篇).

歴史群像太平洋戦史シリーズ(43)松型駆逐艦.

・雨倉孝之:松型駆逐艦長の奮戦記

・中川寛之:第三十一戦隊と丁型駆逐艦部隊全史

・田村俊夫:「竹」の兵装増備状況.

木俣滋郎:日本水雷戦史.

永井喜之、木俣滋郎:撃沈戦記Part II.

大岡昇平:レイテ戦記.

防衛庁防衛研修所戦史室:戦史叢書海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦.

外山操:艦長たちの軍艦史.

福山琢磨編:孫たちへの証言第13集

・山本貢:駆逐艦「桑」の一番砲手として九死に一生.

三神国隆:海軍病院船はなぜ沈められたか(第二氷川丸の航跡).

Samuel Eliot Morrison.:Leyte June 1944-January 1945 Vol.XII of History of United States Naval Operations in World War II.

ホーム・ページ

U.S.S. Allen M. Sumner (DD-692) Official Home Page of the First in it's Class.

さぁぷらす戦史図書館.

・レイテ海戦以後のフィリピン方面海軍作戦:http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu.htm

情報提供:IWA様

Special Thanks for Mr. Take.


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