Down

フィリピン北部

Part4

レイテ輸送作戦

1944年12月

第8次多号輸送作戦とアメリカ軍のオルモック上陸


 1944年12月4日、アメリカ掃海艇パーシュート(グッドR.F.Good予備少佐)とリクワイザト(ピアスH.R.Peirce予備少佐)がカニガオ海峡を掃海した。前回、11月27日に同海峡を掃海したのは東水道であったが、今回、実施されたのは西側の水道である。

もともと日本側は同海峡に機雷を敷設していなかったが、同夜、掃海されたばかりのこの海峡を船団が通過した。この船団はLSM(中型揚陸艦)18-23、34、318の8隻、LSI(歩兵揚陸艇)1014、1017-8の3隻と護衛の第5駆逐隊所属の4隻の駆逐艦(DD368)フラッサーFlusser (コールW.M.Cole大佐座乗)、(366)ドレイトンDrayton、(367)ラムソンLamson、(373)ショーShawの計15隻からなっていた。ただし、この船団の目的は上陸ではなく、カモテス海沿岸を北上していたアメリカ第7師団に対する補給が目的であった。この師団は雨季のため道路が泥濘の海に沈み、陸上からの補給が困難になっていたからである。LST(戦車揚陸艦)が含まれていないのはこのためであるが、闇夜の中で荷役するのには小型のLSMの方が優れていたと言う理由もあった。

 同日22時48分、船団は目的地であるレイテ島西岸バイバイBaybayの北方4kmに到達、ただちに揚搭を開始した。LSM22のみは過積載のため接岸できなかったが、残りはわずか4時間で任務を終了、翌5日3時15分にはバイバイを出港した。船団は妨害を受けることなくカモテス海を南下、5時34分にはカニガオ水道に差し掛かったが、ここで初めて攻撃を受けることになる。1機の日本機がドレイトンに爆撃を行ったのである。
 この攻撃を行ったのは、海軍第367航空隊の水上偵察機瑞雲である。この機は魚雷艇を攻撃する目的でセブから進出していた関係で60kgと小型の爆弾しか搭載しておらず、性能上水平爆撃しかできなかった。それでも、爆弾は至近弾となり、船体に与えた損傷は小さかったものの、2名が死亡、7名が負傷した。

 6時、船団はレイテ島南西角を回った船団の上空援護として海兵隊の夜間戦闘機4機が到着、接触を続けていた日本機を撃墜した。その後、11時まで何事もなく、船団はスリガオ海峡に入ったが、突然、レーダーが接近してくる8機の航空機を捉えた。探知が遅れたのは、レイテ島とミンダナオ島の間、スリガオ海峡西側に横たわるパナオン島の山陰から出現したためであった。うち2機は、夜間戦闘機と任務を交代していた陸軍航空隊のP38戦闘機4機に撃墜されたが、残りは猛烈な対空砲火の中を船団に突入してきた。日本の特攻機であった。

 当時、フィリピンに駐留する第4航空軍は、天候の関係で順延されていたレイテ島ブラウエンのアメリカ軍飛行場に対する空挺作戦を準備していた。これは天号作戦と呼ばれ、第35軍のブラウエン攻略を中心とする和号作戦と呼応する重要なものであった。しかし、同日午前、レイテ湾付近で空中偵察により視認された巡洋艦2、駆逐艦15に護衛下にある約50隻の輸送船の攻撃が優先された結果、特攻隊の主力を派遣してきたのである。

 第4航空軍特攻隊は同年11月に海軍特攻機が大きな戦果を挙げた事に鑑み、内地で編成された第1-6八紘隊で、フィリピン到着後航空軍司令官富永恭次中将により八紘、一宇、靖国、護国、鉄心、石腸隊と改名されて順次攻撃に使用されていた。今回、船団攻撃にネグロス島バコロド飛行場を発進したのは石腸隊の99式襲撃機7機、一宇隊の1式戦闘機隼3機の11機で、指揮官は石腸隊隊長高石邦雄大尉であった。一宇隊は第2八紘隊として常陸教導飛行師団で、石腸隊は第6八紘隊として下志津教導飛行師団で、教官ならびに課程を修了したばかりの学生で編制されている。各隊は1式戦闘機または99式襲撃機12機で編制されたが、石腸隊は志願者多数のため基準以上の18機で編制されていた。なお、99式襲撃機は2人乗りであるが、特攻に際しては操縦者のみが乗機していた。

 この時、船団の北方約8kmには第12駆逐隊司令ポーエルマンK.F.Poehlmann大佐の座乗する
駆逐艦(DD389)マグフォードMugfordと僚艦のラ・ヴァレッタLa Valletteがいた。両艦はレイテ湾から対潜哨戒の目的で派遣されていたものであったが、この2隻が救援に駆けつけた時には、攻撃が始まっていた。残る6機のうち、1機を駆けつけたラ・ヴァレッタが、1機を船団のフラッサーが、そして各艦の集中砲火によりもう1機が撃墜された。しかし、まだ上空には3機が残っていた。うち1機はLSM20の中央部に突入、8名の乗員を殺し、9名の乗員を負傷させた上に艦を沈没させた。さらに1機は跳躍してLSM23の船腹に突入、その船体を大破させた。そして、最後の1機はドレイトンを狙ってきた。
 特攻機が右舷後方から接近するのを知ったドレイトン艦長クレイグヒルR.S.Craighill中佐は、取舵一杯を命令、左舷方向に急旋回した。このため、特攻機は艦橋右舷側をかすめて行ったが、操縦士も追随しその左翼が前部127ミリ砲塔付近に接触した。機体の大半は海上に散らばったが、翼と着陸脚の部品が6名の乗員を殺し、12名を負傷させた。火災も発生したが、これはすぐに消火された。この損傷のためか、ドレイトンはショーとともに生き残った4隻のLSMを護衛してサン・ペドロ湾への先航が命じられ、上空警戒用のP38が増援される中、マグフォード、フラッサー、ラムソンは生存者を救助するとともに、スリガオ海峡での哨戒任務に戻るラ・ヴァレッタを残してLSM23の曳航を開始した。

 5日17時10分頃、LSM23を曳航中のアメリカ駆逐隊は再び特攻機の攻撃を受けた。この時、駆逐隊はようやくスリガオ海峡北口のヒンガトンガン岬Hingatungan Point沖に達した所であった。
 この時、突入したのは鉄心隊である。この隊は鉾田教導飛行師団で編制された第5八紘隊を改名したものである。99式襲撃機12機からなっていたが、この日、マニラを発進したのは隊長松井浩中尉の指揮する3機である。うち2機が目標上空に到達したようで、1機はP38に撃墜されたが、残る1機がマグフォードを攻撃した。この時、この機は先に爆弾を投下している。
 爆弾はマグフォードの右舷後方約180メートルに落下し、日本機は雲間に隠れた。すぐに戻ってきたこの機は、低空から対空砲火をものともせずに左右に激しく揺れながら艦の左舷主甲板の上、約1メートルの所に激突、炎上した。この突入で2名が即死、22名が負傷したが、その多くは火傷で、6名が後に死亡した。火災は約30分後には消し止められたが、第2罐室が大破したマグフォードは波間に漂い、18時18分にはLSM34が曳航を開始した。

 同日、連合軍支配下にあるレイテ湾ドラグDulag南方15kmの漁村タラゴナTaragonaでは新たな船団への物資搭載が始まった。編制は以下の通りである。

 高速輸送隊(W.S.Parsons中佐) 高速輸送艦(APD)x8
 軽輸送隊(W.V.Deutermann中佐) 歩兵揚陸艇(LCI)x27、中型揚陸艦(LSM)x12
 重輸送隊(J.C.Shivley中佐) 戦車揚陸艦(LST)x4
 第60水雷戦隊(W.L.Fresman大佐) 駆逐艦x12
 掃海隊(E.D.McEarthron中佐) 掃海艇x9、掃海艇母艦(駆逐艦改造)x1
 支援隊(P.C.Holt少佐) 駆潜艇(SC)x2、歩兵支援ロケット艇(LCI[R])x4、曳航船x1

 これらの艦艇は、ストラーブルA.D.Struble少将の指揮下に第78.3任務群を構成したが、その総兵力は護衛や支援にあたる艦艇も含めると80隻に及んだ。しかし、迅速な揚搭が必要であったため、通常の輸送船は含まれず、旧式駆逐艦を改造した高速輸送艦がその主力であった。また、護衛艦艇も駆逐艦が最大であったが、その駆逐艦の半数は旧式のマハン級であったものの、残りの6隻は新鋭艦が揃えられた。
 翌6日8時、タラゴナに集結していたブルースA.D.Bruce少将の率いるアメリカ第77歩兵師団の兵員約7000名の乗船が始まり、4時間後に完了した。そして、第78.3任務群は13時30分にタラゴナのやや北方沖で船団を編制した。目的地はオルモック。同地の日本軍補給基地を攻略し、レイテ島攻略の完成を促進するのがその任務であった。
 第77師団はニュー・ヨークで編制され、6月のグアム島攻略戦にニミッツの中部太平洋部隊の指揮下に参加後レイテ島攻略部隊である第6軍の第2次予備隊とされた。ところが、10月29日にマッカーサーがレイテ島攻略の進攻具合から必要がないとしてニミッツに返却した。しかし、部隊の補充に苦しんでいたクルーガー第6軍司令官の抗議により、11月8日になって返却を申し出た部隊である。このため、師団はニュー・カレドニアの補給基地を目の前にしてブーゲンヴィル島沖で反転、23日18時、レイテ湾に到着した。

 マッカーサーはこの師団を12月5日に予定していたミンドロ島攻略に使用するつもりであった。ミンドロ島を攻略すればルソン島は目の前である。このミンドロ島南部の航空基地からの支援下にルソン島に上陸、そしてクリスマスにはマニラに入城してフィリピンの解放を放送すると言うのがマッカーサーの予定であったと言われる。しかし、このプランは周囲の猛反対にあった。

 まず、第3艦隊司令長官ハルゼーがこれ以上の協力は断ると言い出した。9月初旬のダヴァオ空襲以来、艦隊は連続84日間洋上にある。レイテ地上戦への協力についての最初の約束より28日も多く付き合っている。当分、休養すると言い出したのである。陸軍航空隊のケニー司令官も反対した。雨季のため、レイテ島の飛行場建設は予定通りに進んでいない。さらに、日本軍が特攻機を使用し始めた事により危険性が増しており、レイテ島の北西400kmに位置するミンドロ島までの航空掩護は保障できないとし、これにキンケード第7艦隊司令長官も賛成した。その上、クルーガーはレイテ作戦を集結するには、日本軍の補給基地であるオルモックの攻略が必要であると主張したのである。そして、その実施部隊には第77師団がいると。
 結局、マッカーサーは主張を取り下げざるを得なかった。ミンドロ島上陸は10日間延長して12月15日とする。そして、その代わりにオルモックに第77師団を揚陸させると決定したのである。

 第78.3任務群は出港後スリガオ、カニガオの両海峡を経由する往復約400kmを航行する事になっており、オルモックで揚陸を完了するまでの時間を入れると約36時間が必要と計算されていた。この間、タクロバンを基地とする第5航空軍の航空機が海兵隊の航空機とともに上空で警戒する事になっていた。往路だけでも戦闘機が72、夜間戦闘機が17ソティー、上陸開始後は戦闘機96、夜間戦闘機19ソティーである。さらに橋頭堡掩護の目的で40機の爆撃機が使用される事になっており、帰還時にも11機の夜間戦闘機が護衛につくことになっていた。そして、他に約90機が基地で待機していたが、これだけの態勢をとると、レイテ島に展開する陸上部隊はほとんど航空支援を受けられない事になる。しかし、約1週間後に予定されていたミンドロ島上陸作戦に備えて艦艇の損失は最小限に抑える必要があった。

 一方、レイテ島に展開するアメリカ第32師団はリモン峠で、同第7師団はダムラアンで同5日からと攻勢をとって陽動に務めた。また、海軍側も第7艦隊の主力艦艇こそ危険海域への投入をためらったものの、可能な限りの掩護を行う事になっていた。このため、レイテ島南端のソゴド湾Sogod bayを基地とする魚雷艇は、6日深夜まで哨戒を行う事になっており、掃海艇はもう一度カニガオ水道を掃海してさらなる補助水路を設けた。また、第78.3任務群以外に、駆逐艦ニコラス、オバノン、フラッサー、ラ・ヴァレッタの4隻からなる別働隊が用意され、カモテス海を哨戒するとともに、上陸地点の事前砲撃を砲撃する事になっていた。

 アメリカ第77師団の上陸地点になったのはオルモック湾東岸、オルモックの南東約7kmの集落デポジトDepositoの南方海岸である。ここにはバオドBaod、バゴンバンBagonbonと言う2つの川が流れているが、その中間に上陸する事により橋頭堡の防衛がしやすい、約3kmの奥行きのある平野が広がっている関係で部隊の展開がしやすい、オルモックには近いが、すぐに攻撃を受けるほど近くもないと言う条件から選ばれたものである。

 7日1時30分、カモテス海を遊弋しながら日本艦船の捜索に当たっていたアメリカ、フレッチャー級駆逐艦(DD449)ニコラスNicholas、(450)オバノンO’Bannon、(445)フレッチャーFletcher、(448)ラ・ヴァレッタLa Valletteの4隻からなる第21駆逐隊は、そのデポジト沖に到達、艦砲射撃を実施した。陸上に上がった3つの小さな炎を望見してから、彼等はオルモック湾内を遊弋しながら船団の到着を待ったが、上空に日本機が接触していると感じていた。ただし、日本側にこの航空機に当てはまる記録はない。

 この頃、上陸船団はバイバイを通過、なお北上を続けていた。すでに、スリガオ海峡通過時と、日没時にレイテ島南西端を通過した際に日本のものと思われる航空機12ないし18機と遭遇していただけに、今まで攻撃を受けていないのが不思議な状況であった。

 この航空機のうち、前者については第4航空軍の疾風戦闘機の可能性がある。ブラウエン飛行場を強襲しようとしていた陸軍の空挺部隊、高千穂隊の乗った爆撃機を護衛中に編隊からはぐれ、スリガオ海峡上空で船団を発見しているからである。この機は、ネグロス島サラビア飛行場に緊急着陸し、報告を受けた第200戦隊の疾風8機が250kg爆弾2発ずつを搭載して出動している。また、後者については高千穂隊であろうと思われる。ただし、目標を発見できなかったのか、攻撃が出来なかったのか分からないが、いずれにしろ船団に対する攻撃は行われていない。しかも、不思議な事に、マニラの第14方面軍も、オルモックの第35軍も、そして恐らくはマニラの南西方面艦隊も何の警報も受けなかった。したがって、日本軍守備隊が、オルモック湾に入ってくる80隻の船団を見て、連合艦隊が救援にやってきたと思ったのは不思議でも何でもなかった。

 この船団がアメリカのものだと日本側が気付いたのは夜が明けてからで、湾口に位置するポンソン島の部隊が最初の警報を発している。6時34分、イピル後方山地に配備されていた砲が発射を開始したが、すぐにアメリカ側は駆逐艦(DD722)バートンBarton、(724)ラフェイLaffey、(725)オブライエンO’Brienの砲が反撃した。日本側の砲撃が3インチ砲数門と記されているのに対して、この3隻は新鋭のアラン・M・サムナー級で、各艦が5インチ砲を6門ずつ持っている。2ないし3斉射で日本側が沈黙したのは当然のである。

 6時42分、駆逐艦(DD410)ヒューズHughesに座乗するアーサー・W・ストラーブル司令官の命令により、この3隻を含む12隻の駆逐艦ヒューズ、バートン、(DD723)ウォークWalke、ラフェイ、オブライエン、(368)フラッサーFlusser、(367)ラムソンLamson、(619)エドワーズEdwards、スミスSmith、(369)レイドReid、(371)コニンガムConyngham、(364)マハンMahanと歩兵支援ロケット艇1隻が第21駆逐隊とともに上陸援護の目的で射撃を開始した。5分後、高速輸送艦から上陸用舟艇が降ろされ、砲撃開始から25分後の7時7分、最初の上陸用舟艇16隻が海岸に到達すると同時に砲撃は止んだ。この間、6時55分に、南西5kmに位置するアルブエラAlbueraの海岸に多数の兵士の姿が見え、南方に位置していた駆逐艦が砲撃を行った。

 ホワイト・ビーチI、IIと命名された2つの上陸地に到達した第1波の兵士はすぐに内陸部に進み、その後、海岸に辿り着いたLCI(歩兵揚陸艇)16隻が第2波の兵員を吐き出した。第3波12隻は接岸に失敗して引き返した結果、第4波を構成する14隻のLCIの着岸は遅れ、LSM(中型揚陸艦)12隻からなる第5波による車両と補給品の揚陸にも影響が出た。もともと、当日の雲の多い天候から砲撃に必要な明るさが得られなかった関係で、上陸開始は37分間遅れていたが、この遅延により干潮が始まったのだ。このため、多数の上陸用舟艇や揚陸艦が海岸で身動きが取れなくなっており、ただ1隻の曳航艦ATR31が忙しく立ち働いていた。ただし、9時の時点で1700名の人員と289両の車両の上陸が完了し、その30分後にはブルース師団長は部隊を掌握していた。

 もし、この時点で日本側が攻撃を行っていたならば、アメリカ側に大きな損害が出たであろうが、実際には攻撃はなかった。このため、ブルース少将は、第7師団は橋頭堡を確保し後続船団を待てと言う命令ではあったが、北方に進撃してイピルまで橋頭堡を拡大する事を決定した。

 実は、この時、オルモック湾に配備されていた日本の第35軍司令部と第26師団は南西約20kmの山中にあった。ブラウエンBurauen総攻撃を意味する11月23日発令の決号作戦に参加するため、12月1日に宿営地を出発していたからであった。したがって、オルモック湾に残っていたのは船舶工兵(暁部隊)ぐらいのものであり、アメリカ軍に対する兵力等存在しなかった。しかも、オルモック湾の防備体制は必要性を認められながら、資材もなかった事から後回しにされていた。アルブエラとイピルに水際陣地の設置が始まっていたぐらいで、オルモックからアルブエラに至る海岸は事実上無防備な状態であったのである。

 ブラウエンはレイテ島中央部、レイテ平原南端部にあり、日本軍はここに3つの飛行場を建設していた。ブラウエンの東部にあるのが、アメリカ側の呼称でバユグ、サン・パブロの両飛行場、北東に位置するのがブリ飛行場である。日本軍はその相対的な位置から前者をブラウエン南飛行場、後者をブラウエン北飛行場と呼び、ブラウエン飛行場群とも総称したが、アメリカ軍のレイテ進攻時には未完成であった。うち、ブリ(ブラウエン北飛行場)の滑走路が最も長く、設備が整っていたが、レイテ進攻からわずか4日後にはアメリカ軍が進出している。海岸部の飛行場はすぐに占領されて利用されると言う戦訓に基づいて海岸から15kmの内陸部に建設したのだが、アメリカ軍の進攻が早すぎたのである。その後、アメリカ第5航空軍が進出してきたが、ならされただけの大地に雨が降り続いたため、単なる泥の海に過ぎなかった。結局、ホワイトヘッド司令官は同飛行場の使用を諦め、海岸部のタナウアンに新飛行場を建設するとした。これが11月25日、すなわち決号作戦発令の2日後の事であった。このため、ブラウエンに突入しても日本軍が与ええるアメリカ軍への損害は少ないものであるはずだった。

 しかも、この作戦の細部まで記した書類はアメリカ軍の手中にあった。戦死した日本軍将校が持っていたのだ。このため、アメリカ軍は日本軍を待ち伏せしていたのだが、日本側は山中の険路に阻まれて作戦開始日までに目標に到達できなかった。このため、攻撃開始地点に辿り着いたのは12月7日の事であり、この頃にはアメリカ軍は配備を解いていたし、日本側もこの日にオルモックにアメリカ軍が進攻した事を知って突入を中止した。

 また、日本軍の中にも、オルモックと言う重要拠点、レイテ島唯一の日本軍補給基地であり、最大の物資集積場を無防備の状態のまま残してブラウエンに向かうのはどうかと言う意見はあった。ただ、オルモックと言う拠点を守るため、関東軍から第68旅団(星兵団)が抽出され、台湾、マニラを経てオルモックに向かっていた。しかし、この部隊が無事に到達するためにはアメリカ軍の航空基地を叩く必要があると判断され、そのためには全力を傾注する必要があると考えられていた。もちろん、その留守の間にアメリカ軍が進攻してくる危険性は、特にカモテス海でアメリカの駆逐艦や魚雷艇の行動が活発化していた事から高まっている事から、懸念が高まっていたのは事実である。したがって、ブラウエン攻撃が行われる予定になっていたこの日に、アメリカ軍がオルモックにやってきたのは、日本軍にとっては最悪のタイミングであったと言えよう。この日の夕刻、オルモックにその第68旅団主力約4000名とその装備が到着するはずだったからである。

 第68旅団は、1941年6月、当時の満州公主嶺に創設された陸軍教導学校の生徒で養成された遊撃専門の部隊である。全国から選抜され同校で訓練された兵員のみで構成されており、最下級の兵でも上等兵と言う精鋭部隊でもあった。部隊の編成は44年6月25日で、校長栗栖健夫少将がそのまま旅団長となっている。7月3日、あわただしく公主嶺を出発した旅団は釜山、門司を経て7月末に基隆に到着後新竹に移動して訓練を重ねていたが、この当時はサイパンに逆上陸する予定であったと言われている。この部隊のレイテ島派遣が決定したのはアメリカ軍の上陸から3日経った10月22日であるが、マニラ到着は船舶不足から11月中旬となった。その後、第4次多号輸送船団の失敗からマニラに留め置かれていたが、同旅団はレイテ決戦において重要な役割を果たすものと期待されていた。ただ、遊撃部隊とは言え、そのアメリカ軍に匹敵する装備の輸送が重要であり、ために今回は一般船舶を中心とする事になった。

 この船団は第8次多号輸送船団と命名され、12月5日10時30分、マニラを出港した。バイバイに向かったアメリカの補給船団が特攻機の攻撃を受けていた頃である。オルモック到着は7日17時30分の予定であった。

 赤城山丸 日本郵船 4714T
 白馬丸 日本郵船 2858T
 第5真盛丸 原商事 2599T
 日洋丸 東洋汽船 6482T
 第11号輸送艦 

 この5隻を護衛するため、海軍は兵力をかき集め、駆逐艦梅に座乗する第43駆逐隊司令管間(かんま)良吉(兵50宮城)中佐の指揮下に、次の艦艇を出動させた。

 第43駆逐隊 駆逐艦梅(大西快治少佐)、桃(皆川芳雄大尉)、杉(菊池敏隆少佐)
 第21駆潜艇隊 第18、38号駆潜艇

 この船団は第8次多号輸送船団と命名され、12月5日10時30分、マニラを出港した。バイバイに向かったアメリカの補給船団が特攻機の攻撃を受けていた頃である。オルモック到着は7日17時30分の予定であった。

 艦中央部から噴出した火炎は輸送スペースを破壊し、同47分には艦の射撃はすべて停止された。3分後には艦は全動力を失って停止したが、それより先、同48分にファーウェル艦長は総員の退艦を命令していた。すでに行動の自由を失っており、注水されていない弾薬庫が爆発する危険性があったからである。

 このため、救援に駆けつけた駆逐艦オブライエンと高速輸送艦(APD17)クロスビーCrosby、それに2隻の掃海艇に出来る事はワードの乗員を救出する事と、ストラーブルの命令により艦を撃沈処分する事だけであった。ただ、火傷を負った者が若干いただけで、全乗員が助かったのは奇跡と言ってよかった。その生存者の目の前で、艦はオブライエンの砲撃により処分されたが、その艦長アウターブリッジWilliam W. Outerbridge中佐にとってこれは奇縁でもあった。ワードは1941年12月8日真珠湾で特殊潜航艇に対してアメリカ艦艇としての第1弾を放った艦として有名であったが、その時の艦長が彼であったからである。

 一方、残りの艦艇は同48分に接近してくる編隊に対して約2700mの距離から射撃を開始したが、P38と目標が交差したためマハンは射撃を一時中止した。しかし、次の瞬間、マハンは次々と押し寄せてくる特攻機とただ1艦で対面する事になった。艦長キャンベルE.G. Campbell中佐は距離1300mで降下を始めた2機に対して射撃を命令、艦の前方約50mの所でようやく1機を撃墜した。もう1機は艦の右舷側を飛び越えていった。続いて来襲した2機も撃墜したが、5機目に対してはうまくいかなかった。

 突然上昇したこの機は、マハンのマストを叩き切ってから、艦橋後部に激突した。砲火指揮所のある場所であった。爆発の結果、艦橋後部は引き裂かれ、前部煙突が倒壊、艦の前部は火炎に包まれた。射撃指揮は出来なくなったが、それでも5インチ砲は各個射撃でなお迫り来る特攻機に砲弾を浴びせ続け、機関砲も同様に射撃を続けた。

 特攻機の爆発で20mm機関砲を操作していた2名の乗員が吹き飛ばされ、あわてて持ち場に戻ると真正面に特攻機が見えた。マハンに突入してきた6機目の機体である。乗員はこれに射撃を浴びせて乗員を殺したようだったが、機体はそのまま突っ込み、射撃台の直下約3.5メートルに衝突した。爆発が発生し、火炎が射撃台を包んだが2人はそのまま射撃を続行した。この機体は、艦を飛び越えてから反転してきた2機目と思われるが、この機は艦尾側から侵入してきて前甲板と水線の間に衝突した。P38の銃撃を受けていた7機目も降下してきたが、途中で爆発、最後の8機目は艦を飛び越えて姿を消した。

 3機の特攻機に突入されたマハンであったが、艦はなお動力を失っていなかった。それどころか、艦は東方の友軍艦艇目指して34ノットで航行したのだ。しかし、これが逆に火勢を強める事になり、注排水装置が使えなくなった弾火薬庫の誘爆の危険性が高まった。すでに消火ポンプは破壊されており手の打ちようもなかった。10時1分、キャンベル艦長は総員に退艦を命令、マハンは11時50分に駆逐艦ウォーラーの雷撃により処分された。戦死行方不明者が10名、負傷者は32名であった。

 この編隊が何であったかは、実は確証がない。いくつかの本を参照させて戴いたが、この特攻機については記録が一致しないからである。ただ、いくつかの記録で正式の特攻隊によるものとしているのは間違いであろう。陸軍の特攻隊が船団上空に到着したのはこの後であり、海軍側の出発は同日12時20分だからだ。もっとも、大岡昇平「レイテ戦記」では第5飛行団の100式重爆撃機呑龍12機と護衛の1式戦闘機隼4機であったとしており、生田惇「陸軍航空特別攻撃隊史」には呑龍7機がオルモック湾へ向かって2機が対空砲火により失われたとある。数こそ異なるものの、アメリカ側の記録にある双発機と言うのは呑龍の事と考えてよいように思う。

 この呑龍は11月初旬に当時の満州からルソン島クラーク飛行場に到着したものである。レイテ湾爆撃に向かう途中、偶然、船団上空を通りかかったもの、もしくはオルモックのアメリカ軍上陸を聞いて急遽出動したものとされるが、特攻隊として編制されたものではない。だいたいに、この爆撃機は、鈍龍とも俗称されたぐらい鈍重である。ただ、日本の飛行機にしては大型なので、夜間爆撃には有効であったと言う。しかし、特攻は目標を視認が絶対に必要なのでどうしても昼間攻撃になり、絶対的に不利である。にもかかわらず、この攻撃で駆逐艦2隻が沈められた事から、12月15日、残りの呑龍も特攻機として使用される事が決定され、搭乗員とともにすべてが失われる事になる。

 ストラーブルが第8次多号輸送船団の存在を知ったのは、8時15分にオルモック北西約120kmのヴィサヤ海Visayan seaを南下する船団を発見したと言う報告によってである。彼は、その指揮下に16隻の駆逐艦を有していたが、上陸支援に忙しかったので、その分遣を望まなかった。このため、ストラーブルは第5航空軍に船団攻撃を要請した。

 第5航空軍はオルモック上陸の掩護にかなりの勢力を用意していたが、なお多くの航空機がタクロバン飛行場に残っていた。第341、347航空隊のP40ウォーホーク、P47サンダーヴォルト各16機と海兵隊第12航空団第313、211、218航空隊に属するF4Uコルセア21機の合計51機である。これらは戦闘機であるが、この頃には爆弾を搭載して戦闘爆撃機として使用可能であり、基地を発進したこれらの戦闘機は14波に渡って合計で1000pdr(約450kg)爆弾94発、500pdr(約230kg)爆弾6発を船団に投下したのである。

 第8次多号輸送船団がこの戦闘爆撃機による空襲に遭遇したのは10時30分頃の事である。場所はレイテ島北西端のサン・イシドロSan Isidro半島北西岸のサン・イシドロ沖である。その後、12時50分まで続いた空襲で3隻の駆逐艦は2機のF4Uを撃墜したが、マストの高さまで急降下して銃爆撃を加えてくるアメリカ機の攻撃により相次いで損傷を受けた。中でも被害の大きかったのは梅で、前部機械室ならびに重油タンクに受け、後部127mm主砲が使用不能になった。杉も爆撃により損傷したが、ともに戦闘航海は可能であった。

 当然、輸送船も損害を受けたが、その損傷状況は詳らかではない。空襲より先、10時に菅間司令はアメリカの哨戒機に発見された事とオルモックにアメリカ軍が上陸を開始したと言う情報に基づき、各船にサン・イシドロ港内に突入、擱座するよう命令しており、その結果、全輸送船は砂浜に乗り上げて行動の自由を失った中、12時50分までに空襲に遭遇してほぼ全乗員とともに失われたからである。特に白馬丸Sirauma MaruはB24爆撃機の集中爆撃により約2分間で沈没、乗船部隊、乗員、船砲兵隊員全員とともに海没しており、翌8日15時から日没まで駆潜艇5隻が強風の中を捜索したが、1人の生存者も見つける事はできなかったと言う。また、船員で空襲を生き延びる事ができたのは日洋丸の4名のみと言われており、赤城山丸Akagisan Maruの船員58名船砲隊員69名、白馬丸の船員50名船砲隊員49名、第5真盛丸の船員44名船砲隊員21名、日洋丸の船員60名は戦死した。

 ただ、この結果として第68旅団は人員約4000名が上陸する事ができた。ただし、重火器を搭載した第11号輸送艦も接岸中コルセア4機の攻撃を受けて爆弾4発が命中、12時に破壊されたと言う事もあって揚陸できた砲は4門のみであったと言う。したがって、第68旅団はほとんど何の装備もなく主戦場から約60kmも離れた場所に放り出されたのと同じであり、しかも、ようやく揚陸できたわずかな重火器も山砲2門を担いで行っただけであった。残り2門は上陸地に補給基地を設営するために同時に上陸した第58旅団(盟兵団)独立第380大隊とともに残していったからである。これは、非常な悪路が前方の山中に広がっていたからであるが、無線機も海没したままであったので第35軍との連絡も取れないまま旅団はサン・イシドロ半島の山中に入り、多くは帰らなかった。

 一方、護衛陣は船団の擱座と人員の上陸を見届けると撤収に移った。梅と杉が損傷しており、これ以上、航空機の攻撃にさらされても意味がないと判断したのだ。夕刻になって、第5航空軍はもう一度空襲を行ったが、回避に成功した。しかし、菅間司令は、17時31分、桃に反転を命じる。擱座した輸送船の状況を確認したかったのだ。このため、桃は以後単独行動をする事になり、帰投中、マスバテMasbate島で触礁したものの残りの4隻とともにマニラへ戻る事ができた。

 多号輸送船団が絶望的な戦いを強いられている間も、アメリカ軍のオルモック上陸は続いた。9時30分、駆逐艦コニンガムはイピル南方に集結し始めた日本軍に対して砲撃を開始した。しかし、砲撃にもかかわらず集結が続いたため、30分後にコニンガムは任務群に対して砲撃を要請したが、その30分の間に、アメリカ側は日本側の激しい攻撃に遭遇する事になる。

 9時34分、対空指揮を担当していた駆逐艦ラムソンのレーダーは約20km先に国籍不明機を捉えた。双発爆撃機12機と戦闘機4機からなるこの編隊は、ポンソン島北端のピラー岬Pilar Pointとマトラン半島南東のカルナンガン岬Calunangan Pointの間、オルモック湾とカモテス海を結ぶ最も北側に位置する海峡上で対潜哨戒に従事していた駆逐艦マハン、高速輸送艦(APD16)ワードWard、掃海艇(AM295)ソーンターSaunter、(296)スカウトScoutの4隻の方に向かった。同40分、ラムソンからの指示で上空警戒中のP38ライトニング戦闘機4機が編隊と哨戒艦の間に割り込み、3機の戦闘機を編隊から引き離すとともに、2機の爆撃機に命中弾を与えた。しかし、この迎撃は遅すぎた。切り離された3機はワードに向かい、残りのうち2機がマハンに対して降下を開始、さらに後続機もマハンに向かって突入を開始したのだ。

 同45分、ワードに向かった3機が降下を開始した。同艦の艦長ファーウェルRichard F. Farwell大尉は20ノットに増速するとともに全砲火の発射を命じ、さらに取舵一杯を命令してこれを避けようとした。しかし、約45度の角度で突入してきた先頭機が左舷中央部吃水線上に激突、機体の一部は舷側を突き破って前部機械室で爆発した。残る2機のうち、1機は銃撃を受けて艦尾約500mに落下、他の1機は艦首楼をかすめて左舷艦首側約200mの海上に落ちたが、爆発は艦に致命的な損害を与えていた。

 ただ、この結果として第68旅団は人員約4000名が上陸する事ができた。ただし、重火器を搭載した第11号輸送艦も接岸中コルセア4機の攻撃を受けて爆弾4発が命中、12時に破壊されたと言う事もあって揚陸できた砲は4門のみであったと言う。したがって、第68旅団はほとんど何の装備もなく主戦場から約60kmも離れた場所に放り出されたのと同じであり、しかも、ようやく揚陸できたわずかな重火器も山砲2門を担いで行っただけであった。残り2門は上陸地に補給基地を設営するために同時に上陸した第58旅団(盟兵団)独立第380大隊とともに残していったからである。これは、非常な悪路が前方の山中に広がっていたからであるが、無線機も海没したままであったので第35軍との連絡も取れないまま旅団はサン・イシドロ半島の山中に入り、多くは帰らなかった。

 一方、護衛陣は船団の擱座と人員の上陸を見届けると撤収に移った。梅と杉が損傷しており、これ以上、航空機の攻撃にさらされても意味がないと判断したのだ。夕刻になって、第5航空軍はもう一度空襲を行ったが、回避に成功した。しかし、菅間司令は、17時31分、桃に反転を命じる。擱座した輸送船の状況を確認したかったのだ。このため、桃は以後単独行動をする事になり、帰投中、マスバテMasbate島で触礁したものの残りの4隻とともにマニラへ戻る事ができた。

 多号輸送船団が絶望的な戦いを強いられている間も、アメリカ軍のオルモック上陸は続いた。9時30分、駆逐艦コニンガムはイピル南方に集結し始めた日本軍に対して砲撃を開始した。しかし、砲撃にもかかわらず集結が続いたため、30分後にコニンガムは任務群に対して砲撃を要請したが、その30分の間に、アメリカ側は日本側の激しい攻撃に遭遇する事になる。

 9時34分、対空指揮を担当していた駆逐艦ラムソンのレーダーは約20km先に国籍不明機を捉えた。双発爆撃機12機と戦闘機4機からなるこの編隊は、ポンソン島北端のピラー岬Pilar Pointとマトラン半島南東のカルナンガン岬Calunangan Pointの間、オルモック湾とカモテス海を結ぶ最も北側に位置する海峡上で対潜哨戒に従事していた駆逐艦マハン、高速輸送艦(APD16)ワードWard、掃海艇(AM295)ソーンターSaunter、(296)スカウトScoutの4隻の方に向かった。同40分、ラムソンからの指示で上空警戒中のP38ライトニング戦闘機4機が編隊と哨戒艦の間に割り込み、3機の戦闘機を編隊から引き離すとともに、2機の爆撃機に命中弾を与えた。しかし、この迎撃は遅すぎた。切り離された3機はワードに向かい、残りのうち2機がマハンに対して降下を開始、さらに後続機もマハンに向かって突入を開始したのだ。

 同45分、ワードに向かった3機が降下を開始した。同艦の艦長ファーウェルRichard F. Farwell大尉は20ノットに増速するとともに全砲火の発射を命じ、さらに取舵一杯を命令してこれを避けようとした。しかし、約45度の角度で突入してきた先頭機が左舷中央部吃水線上に激突、機体の一部は舷側を突き破って前部機械室で爆発した。残る2機のうち、1機は銃撃を受けて艦尾約500mに落下、他の1機は艦首楼をかすめて左舷艦首側約200mの海上に落ちたが、爆発は艦に致命的な損害を与えていた。

 艦中央部から噴出した火炎は輸送スペースを破壊し、同47分には艦の射撃はすべて停止された。3分後には艦は全動力を失って停止したが、それより先、同48分にファーウェル艦長は総員の退艦を命令していた。すでに行動の自由を失っており、注水されていない弾薬庫が爆発する危険性があったからである。

 このため、救援に駆けつけた駆逐艦オブライエンと高速輸送艦(APD17)クロスビーCrosby、それに2隻の掃海艇に出来る事はワードの乗員を救出する事と、ストラーブルの命令により艦を撃沈処分する事だけであった。ただ、火傷を負った者が若干いただけで、全乗員が助かったのは奇跡と言ってよかった。その生存者の目の前で、艦はオブライエンの砲撃により処分されたが、その艦長アウターブリッジWilliam W. Outerbridge中佐にとってこれは奇縁でもあった。ワードは1941年12月8日真珠湾で特殊潜航艇に対してアメリカ艦艇としての第1弾を放った艦として有名であったが、その時の艦長が彼であったからである。

 一方、残りの艦艇は同48分に接近してくる編隊に対して約2700mの距離から射撃を開始したが、P38と目標が交差したためマハンは射撃を一時中止した。しかし、次の瞬間、マハンは次々と押し寄せてくる特攻機とただ1艦で対面する事になった。艦長キャンベルE.G. Campbell中佐は距離1300mで降下を始めた2機に対して射撃を命令、艦の前方約50mの所でようやく1機を撃墜した。もう1機は艦の右舷側を飛び越えていった。続いて来襲した2機も撃墜したが、5機目に対してはうまくいかなかった。

 突然上昇したこの機は、マハンのマストを叩き切ってから、艦橋後部に激突した。砲火指揮所のある場所であった。爆発の結果、艦橋後部は引き裂かれ、前部煙突が倒壊、艦の前部は火炎に包まれた。射撃指揮は出来なくなったが、それでも5インチ砲は各個射撃でなお迫り来る特攻機に砲弾を浴びせ続け、機関砲も同様に射撃を続けた。

 特攻機の爆発で20mm機関砲を操作していた2名の乗員が吹き飛ばされ、あわてて持ち場に戻ると真正面に特攻機が見えた。マハンに突入してきた6機目の機体である。乗員はこれに射撃を浴びせて乗員を殺したようだったが、機体はそのまま突っ込み、射撃台の直下約3。5メートルに衝突した。爆発が発生し、火炎が射撃台を包んだが2人はそのまま射撃を続行した。この機体は、艦を飛び越えてから反転してきた2機目と思われるが、この機は艦尾側から侵入してきて前甲板と水線の間に衝突した。P38の銃撃を受けていた7機目も降下してきたが、途中で爆発、最後の8機目は艦を飛び越えて姿を消した。

 3機の特攻機に突入されたマハンであったが、艦はなお動力を失っていなかった。それどころか、艦は東方の友軍艦艇目指して34ノットで航行したのだ。しかし、これが逆に火勢を強める事になり、注排水装置が使えなくなった弾火薬庫の誘爆の危険性が高まった。すでに消火ポンプは破壊されており手の打ちようもなかった。10時1分、キャンベル艦長は総員に退艦を命令、マハンは11時50分に駆逐艦ウォーラーの雷撃により処分された。戦死行方不明者が10名、負傷者は32名であった。

 この編隊が何であったかは、実は確証がない。いくつかの本を参照させて戴いたが、この特攻機については記録が一致しないからである。ただ、いくつかの記録で正式の特攻隊によるものとしているのは間違いであろう。陸軍の特攻隊が船団上空に到着したのはこの後であり、海軍側の出発は同日12時20分だからだ。もっとも、大岡昇平「レイテ戦記」では第5飛行団の100式重爆撃機呑龍12機と護衛の1式戦闘機隼4機であったとしており、生田惇「陸軍航空特別攻撃隊史」には呑龍7機がオルモック湾へ向かって2機が対空砲火により失われたとある。数こそ異なるものの、アメリカ側の記録にある双発機と言うのは呑龍の事と考えてよいように思う。

 この呑龍は11月初旬に当時の満州からルソン島クラーク飛行場に到着したものである。レイテ湾爆撃に向かう途中、偶然、船団上空を通りかかったもの、もしくはオルモックのアメリカ軍上陸を聞いて急遽出動したものとされるが、特攻隊として編制されたものではない。だいたいに、この爆撃機は、鈍龍とも俗称されたぐらい鈍重である。ただ、日本の飛行機にしては大型なので、夜間爆撃には有効であったと言う。しかし、特攻は目標を視認が絶対に必要なのでどうしても昼間攻撃になり、絶対的に不利である。にもかかわらず、この攻撃で駆逐艦2隻が沈められた事から、12月15日、残りの呑龍も特攻機として使用される事が決定され、搭乗員とともにすべてが失われる事になる。

 約1時間半後、マハンとワードに特攻機が突入し、まだこの2隻が炎上している間に第2の攻撃が始まった。11時12分、駆逐艦スミスに対して零戦と思われる数機が攻撃してきたのである。スミスは攻撃の回避に成功したが、ストラーブルに引揚げを決心させるには充分であった。すでに船団の揚搭は終了しており、海岸では座礁した3隻のLSMを救おうとして懸命の作業が続けられていたが、ただちに作業は中断された。しかし、南下を始めた部隊に対して零戦が追いすがってきた。

 この機体は10時45分にセブ島を発進した海軍第252航空隊第5桜井隊の特攻機4機と直掩機2機であると思われるが、うち1機がストラーブルの座乗する駆逐艦ヒューズを狙い、もう1機は高速輸送艦(APD62)コファーCoferに、残る2機が同(60)リドルLiddleに突進してきた。ヒューズに向かった1機は艦の左舷前方約50mまで接近したものの、コファーに向かったものと同じく対空砲火により撃墜された。一方、リドルに向かった1機も対空砲火により空中で爆発したが、それは艦の左舷側わずか10mの所であったので、爆発の衝撃とともに機体の部品や燃えた燃料が甲板に降り注いだ。この結果、若干の損害が出たが、11時20分、真正面から突っ込んできた最後の1機はもっと大きな損害を艦に与えた。

 この機は、猛烈な対空砲火をかいくぐってリドルの艦橋に衝突、炎上した。この突入により、戦闘指揮所、通信室、艦長室が破壊されたリドルは36名が死亡し、22名が重傷を負ったが、戦死・行方不明者の中には艦長ブロッガーLloyd C。 Brogger予備大尉、先任将校、砲術長、通信長、軍医長が含まれていた。このため、生き残ったハウズR.K. Hawes予備中尉はヒューズとコファーに医療隊の応援を頼み、指揮を継承したF・H・スタント中尉は人力操舵で艦を操縦した。

 一方、第4航空軍特攻機24機、直掩機23機のほとんどはオルモックの船団攻撃に指向された。ただし、そのほとんどが上空で待機していたP38戦闘機36機の迎撃を受けて突入に失敗、海岸に擱座していたLSM318が失われ、LSM18、19が損傷を受けたに留まった。また、第2航空艦隊は12時20分にルソン島マバラカット飛行場から零戦3、彗星4機からなる第3千早隊を6機の直掩機とともに発進させるとともに、第634航空隊に残された瑞雲、彗星合計11機を戦闘機20機の掩護下にカモテス海に送り込んだ。後者は通常攻撃を目的とするものであったが、オルモック付近にあった前記のP38ならびに海兵隊機に迎撃され、約20機を失って反転せざるを得なかった。

 13時30分頃、バイバイ沖に到達した第78.3任務群の駆逐艦ラムソンは上空3000メートルに偵察機1機を認め、直掩のP38戦闘機12機のうち4機を指向させた。しかし、その到着より前にこの機はラムソンに向けて降下を開始、約50メートルの高度から爆弾1発を投下した。この爆弾は左舷後方約270メートルの所に落下し、機もラムソンの砲撃により撃墜された。

 その後、船団はバイバイを通過して南方約20kmのアモゴタダ岬に差し掛かったが、突然、その沖約5kmに位置するヒムキタンHimquitan島を越えて3機の日本機が出現した。この3機は傷ついたリドルを護衛して船団に追い付こうとしていた駆逐艦エドワーズに向かったが、艦は2機を撃墜、1機のみがマストの頂上に衝突して四散した。

 同様にヒムキタン島を越えて飛来した1機はラムソンを狙い、猛烈な砲撃を衝いて突入してきた。ラムソンは取舵をとって回避しようとしたが、機は第2煙突に右翼を引っ掛けて回転、そのまま電信室に激突して爆発した。プロペラが右舷の隔壁に突き刺さり、艦を包み込むほどの火炎がマストの高さまで昇った。第1機関室のハッチは衝撃でゆがみ、部屋の中で多くの兵員が犠牲になった。

 フラッサーに座乗していた司令のコールCole大佐は艦の処分を決定したが、ラムソンの乗員は艦を救おうと必死になっており、フラッサーと救難曳船ATR31の援助もあって、ようやく鎮火に成功した。しかし、艦の第2煙突は倒壊しており、焼け爛れた艦内には21名の死者と54名の負傷者が横たわっていた。

 15時26分、第60駆逐連隊司令フリーズマンW.L. Freseman大佐の座乗する駆逐艦バートンも特攻機の攻撃を受けた。各種砲弾を受けて、この機は艦首右舷方向に墜落したが、それは通風装置を通じて艦内にガソリンの臭気が漂うほどの至近距離であった。また、LST737もカニガオ水道付近で特攻機の攻撃を受けて損傷しているが、日没後、レイテ島南端を通過した部隊は、嵐に遭遇した結果、18時45分の攻撃を最後として、日本機の攻撃はなかった。また、ATR31に曳航され、砲弾を撃ち尽くしてサン・ペドロ湾に単独で帰投したフラッサーに代わって任務についていた駆逐艦レイドに護衛されたラムソンは、翌朝、重巡洋艦(CA33)ポートランドPortland、軽巡洋艦(CL43)ナッシュヴィルNashville、駆逐艦(DD583)ホールHall、(590)ポール・ハミルトンPaul Hamiltonと合流、無事、レイテ湾に到着した。その後、ラムソンは本国に送られ、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修復作業を行い、翌年5月には太平洋戦線に復帰している。また、同様に大きな損害を受けた高速輸送艦リドルの修理はサン・フランシスコで行われ、翌年2月には完了している。

 この上陸作戦に対して、日本側が繰り出した航空機は、陸海あわせて100機を超えた。うち、アメリカ側の記録では48機を撃墜したが、9時間25分の間に16回の攻撃を受けて駆逐艦2隻、LSM1隻が沈没、駆逐艦1、高速輸送艦1隻等が大きな損傷を受けた。

 本稿はモリソン著アメリカ海軍第2次世界大戦公刊戦史第12巻「レイテ」を基に記述したが、英語に不案内であるため、大岡昇平著「レイテ戦記」等を多いに参考にした。ただ、誤訳あるいは思い違い等に基づく部分も多々あろうと思うが、その責は当方にある。

主要参考文献

佐藤和正:艦長たちの太平洋戦争(続篇).

星野清三郎:ヒゲの提督 木村昌福伝(続).

歴史群像太平洋戦史シリーズ(43)松型駆逐艦.

・雨倉孝之:松型駆逐艦長の奮戦記

・中川寛之:第三十一戦隊と丁型駆逐艦部隊全史

・田村俊夫:「竹」の兵装増備状況.

木俣滋郎:日本水雷戦史.

永井喜之、木俣滋郎:撃沈戦記Part II.

大岡昇平:レイテ戦記.

防衛庁防衛研修所戦史室:戦史叢書海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦.

外山操:艦長たちの軍艦史.

福山琢磨編:孫たちへの証言第13集

・山本貢:駆逐艦「桑」の一番砲手として九死に一生.

三神国隆:海軍病院船はなぜ沈められたか(第二氷川丸の航跡).

Samuel Eliot Morrison.:Leyte June 1944-January 1945 Vol.XII of History of United States Naval Operations in World War II.

U.S.S. Allen M. Sumner (DD-692) Official Home Page of the First in it's Class.

さぁぷらす戦史図書館.

・レイテ海戦以後のフィリピン方面海軍作戦:http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu.htm

情報提供:IWA様

資料提供:桜と錨様

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