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表紙の写真

2008年6月

三笠山.

2008年5月17日撮影.

 戦艦三笠の名は、日本海海戦時の連合艦隊旗艦として、また、現存する唯一の前弩級戦艦として艦艇愛好家には広く知られていると思うが、艦名の由来となった三笠山については、あまり知られていないのではないかと思う.

 この写真は、東大寺南大門近くの三社池越しに撮影した三笠山だが、このことからも分かるように、この山は奈良県奈良市、すなわち平城京の東郊に位置する.奈良の地理に詳しい人ならば、春日大社の裏山と言った方が分かりよい.

若草山から東大寺大仏殿越しに見た生駒山.

2011年9月25日撮影.

 いや、三笠山というと、山焼きで有名な奈良の若草山の別名ではなかったかと仰られる方もおられるかとは思う.しかし、本当の三笠山若草山ではない.若草山と同じく春日山系に属するものの別の山である.

 ただし、若草山の別名が三笠山であるのは事実である.実は、私は若草山の山頂まで上った際、展望台にあった掲示板で、本来の三笠山は別の山であり、近世に混同されたことを初めて知った.しかも、その本来の三笠山は眼下にあった.残念ながら、その時の写真が見つからないので、上記写真と同じ日、ほぼ同じ場所から撮影した写真をお見せしよう*.

 右端が三笠山、左端が若草山、野原は飛火野Tobuhinoであるが、この2つの山は非常に近接している.この距離の近さが両者の混同につながったものと思われるが、もう一つ、考えられる理由がある.

 目立たないからである.

 上の写真はともかくとして、下の写真で三笠山の稜線をきちんと見分けるには努力が必要である.背後に位置する春日山系に隠れてしまうからである.多分、何十回となく奈良には行っている私も、きちんと見分けたのは今回が初めてである.

 そんな、存在があやふやな山が、隣の山と間違えられるのは仕方がないと思うのであるが、なぜ間違えられたかというと、有名だからである.

 艦艇愛好家以外で三笠山の名を知っておられるとしたら、そのほとんどが「百人一首」を通じてであろう.

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

 (大空を振り返って見ると、月が出ている.故郷の春日三笠山にかかっていたように)

 作者阿倍仲麻呂は、遣唐使として中国に派遣され、科挙に合格して出世を重ねたが、帰国することもできずに異国の地に没した.この歌は異国の地から、遠く故郷を思い出して詠ったものとされるが、実はこの歌以外に彼の歌は知られていない.また、仲麻呂は「万葉集」の時代の人であるが、歌が収録されているのは「古今集」である.ただ、李白が仲麻呂が遭難して死んだと伝えられた時に(実際には生還)詠んだ詩があったり、王維が仲麻呂の部下だったという話があって、実在は疑われていない.

 それはともかくとして、しかし、なぜ三笠山なのだろうか.

 ♪青丹よしAoniyoshi平城山Narayamaの空に満月

 さだまさしの「まほろば」の最後の一節であるが、この歌のように平城山であってもよいはずだ.平城山が平城京の北方にあって月の出にはおかしいと言うのなら春日山でもよい.もっとも、その場合は「春日なる」というのはおかしいので「大和なる」とでもしないと駄目であろうが.

 それでも三笠山にこだわるのは、この山が神聖な山だからである.

 現在、この山は登ることができない.それどころか、毎年11/9に神官等が山頂にある本宮神社の例祭で登る以外は、入山すらされない.この山は、841年に春日大社の神域となり、狩猟伐採が一切禁じられた禁足地だからだ.

 春日大社は、768年、鹿島神がこの山に降臨したというのがの始まりとされる.これが、この地が禁足地となった理由だが、この時、神は白鹿に乗って来たので、鹿は聖獣となり、奈良公園を散策する事になる.多分、鹿島の鹿の字に由来するものであろう.

 春日大社がこの山を中心にして出来ている事を実感してもらうためには、三条通りを西へ行ってもらうと良い.猿沢池に向かう途中、国道との交差点に一の鳥居が建つ.厳島神社気比神宮と並んで日本3大木造鳥居の1つされる巨大なものだが、上記の左の写真にあるように、その上に三笠山がそびえる.藤原氏はこの神社を建立するにあたって、その参道を三笠山から真直に西に向かう三条通りを想定したのだ.

 また、上記右側の写真でも分かるように、春日大社の境内から三笠山が、そしてその上の空がよく見える.まさしく、「春日なる三笠の山に出でし月」である.

 では、なぜ鹿島神三笠山を選んだのかと言う事になるのだが、それはここが神名(奈)備山Kamunabi yamaだからであろう.

 日本最古の神社は、奈良県桜井市の大神Omiwa神社であるが、この神社には本殿がない.ただ、拝殿はあって、そこから三輪山を拝することになっている.つまり、神体は三輪山そのものであるということなのだが、そのような山を神名備山と言う.

 先日亡くなった吉野裕子という学者が、日本の神の本来の姿は蛇であり、蛇がとぐろを巻いているような形状を持つ山は信仰の対象、すなわち、神名備山になりやすいと述べている.とぐろ状と言うのは、左右対称、三角錐形の山となるが、なるほど三輪山はそう言う形状である.そして、三笠山もそういう形状である.実際、三輪山と三笠山に神が降臨したという伝承もあるようである.

 「続日本紀元正天皇養老元年二月壬申朔に、下記のような記述がある.

 遣唐使祀神祇於蓋山之南(遣唐使が神祇を蓋山の南に祀った)

 蓋山を御蓋Mikasa山と解するのなら(実際、御蓋山と表記される事は多い)、これが三笠山が資料に登場する最初となるのだが、養老元年は717年で、鹿島神の降臨の51年前である.なぜ、この地に神祇を祀ったのかというと、この山が神聖な山であったからと考えるのが自然であろう.

 また、717年の遣唐使のメンバーには阿倍仲麻呂がいる.朔、すなわち新月であるから、月が見えたかどうかは分からないが、仲麻呂は三笠山の麓に行っていると考えてよい.

 古田武彦は奈良市内から三笠山が明白に看取できず、したがって、この歌の三笠山は九州のそれであると論述している.それはそれで傾聴に値する意見なのだが、論述の中でも述べているように、春日大社の境内からは三笠山にかかる月は看取できる.ならば、歌の中の三笠山は、従来通り、奈良の三笠山で良いのではないかと思う.

 「万葉集」で三笠山が詠まれる場合、「高座Takakuraの」あるいは「大君の」と枕詞を付けている.高座は皇族等の座す高い壇、大君は天皇のことだから、それに天蓋を差し掛ける山と言う意味である.平安時代になって、近衛府の高官を「三笠山」と称したのは、これに由来する.これが艦名に三笠が使われた最大の理由であろう.

追記:その後、若草山に登る機会があったので、山頂から見た三笠山の写真を追加した.

若草山山頂から見た三笠山.

2011年9月25日.


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Last up-dated, 19 June 2008.

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