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#51

ツバキが花ごと落ちるのは、ロスを防ぐためだという説がある.

虫の少ない冬季に花を咲かせるため、受粉はメジロのような鳥に頼っている.

このため、頑丈な構造になっており、同時に大量の花を一度に咲かせるのだが、

これは、植物にとっては、大きな負担である.

このため、受粉できなかった花は、早々に見捨てられ、落花するのだという.

しかし、ツバキの雌しべと雄しべの距離は近い.

簡単に受粉しそうだが、その割には、落ちている花は多い.

ただ、ツバキは自家受粉をしない.

正確にいうと、稀に自家受粉をする場合もあるそうだが、基本的にはしない.

したがって、同じ花の花粉が柱頭についても結実しないようになっているのである.

他家受粉というが、このため、ツバキは品種改良がしやすい.

他の遺伝子を持つものと常に掛け合わさられるからである.

つまり、変種が生じやすいのである.

2015.4/8

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#52

70%以上の種が絶滅することを大絶滅というが、地球は過去5億年の間に、これを5回記録している.

70%にはいかないものの、数十%の種が滅んでしまう絶滅も、十数回あった.

このような絶滅は、種にとっての危機ではあるが、繁栄の機会でもある.

そして、その機会を捉えた一つが、哺乳類である.

哺乳類は2億年以上前に誕生したが、そのほとんどが小さく、夜陰に紛れて生活していた.

恐龍のような大型爬虫類が跋扈していたからである.

したがって、もし恐龍が絶滅しなかったならば、現在のような哺乳類の繁栄は考えらなかったはずなのである.

それは、大木が倒れた後、その影になっていて生育ができなかった草が、一斉に萌え出すようなものである.

しかし、大型の哺乳類の化石から、未消化の恐龍の子が見つかっていることを考えると、

恐龍の絶滅は、哺乳類の繁栄の大きな契機であったことは間違いないだろうが、

もしかすると、自らの力で哺乳類は繁栄の道を見出しえたかもしれないとも思う.

そして、その力となったのは、進化である.

2015.4/9

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#53

姪は、自閉症である.

今は特別支援学校というらしいが、養護学校に通い、現在は作業所に通っている.

つまり、重度の障碍者なのだが、彼女は、毎晩、枕元に非常持出し袋を置いて寝る.

そして、その中には、彼女が必要とするすべてのものが入っている.

家族が用意するのではない.

本人の習慣である.

だから、大災害が起きても、彼女だけは助かるのではないかというのが、家族の弁である.

2015.4/12

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#54

自閉症はAutismという英語表記のほうが分かりよいと思うが、行動が自動的Autoである.

同じことの繰り返し、それが重要なので、枕元に非常持出し袋がないというのは、考えられないのである.

そして、常に繰り返しているために、そのことに対するエキスパートになりえる.

アメリカ映画に「レインマン」というのがある.

観られた人も多いと思うが、ダスティン・ホフマンが演じたこの映画の主人公は、自閉症である.

そして、随分と脚色されているが、数字に強いこだわりを持っている.

たとえば、電話帳を読んだだけで、その情報を頭にインプットしてしまう.

だから、ウェートレスの名札を見ただけで、その人の電話番号が分かってしまう.

問題は、それを告げて、相手を気味悪がらせてしまうことにあるが、凄い能力である.

10年先の任意の日の曜日が分かる自閉症患者もいる.

計算するのではない.

暦が頭の中に入っているのである.

2015.4/13

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#55

なぜ、ツバキは自家受粉をしないのかというと、多様な子孫を残すためである.

恐龍の絶滅の原因は、隕石の衝突により地球上の環境が急変したためといわれる.

そのような変化に対応するのは、非常に難しい.

したがって、大絶滅などということが起こるのだが、もし、それに対処することができたなら、

哺乳類のように、次の時代の覇権を握ることも可能である.

ただし、種のすべてが生き残るのが理想だが、99%が絶滅してもよい.

1%、0.000001%でもよいのだが、生き延びれば、その種は繁栄できる可能性があるのである.

2015.4/14

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#56

生残りをかけて、動物も植物も様々な戦略を打ち出している.

しかし、その中心となるのは、多様性である.

様々な子孫を産出し、世に送り出すことである.

もちろん、その中には、失敗作も、成功作もあるだろう.

ただ、今の世では失敗作とされるものでも、次の世ではどうだろう.

もしかすると、現在ではうまく適応できていないものが、次の急変期では、

種の保存の救世主になりうるのかもしれないのである.

2015.4/16

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#57

一億二心にしてくれと叫んだのは詩人の金子光晴だが、すべてが同じ方向を向いている社会は危うい.

そのことは戦前の日本が証明している.

2015.4/21

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#58

中国に行った人がよく間違うのが、トイレだそうである.

男性用が赤で、女性用が青のピクトグラムで表記されていることが多いからである.

これは、赤が陽気の極まった色であり、男性は陽気に属するからである.

したがって、五星紅旗というのは、漢気溢れるものということになる.

2015.4/22

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#59

ミート・ボールというのは、日の丸の俗称である.

特に、日本軍機の国籍識別マークのことを、アメリカでそう呼んだ.

ところで、なぜ肉団子などというふうに呼ばれたかというと、もちろん、似ているからだが、

日の丸が、太陽の表象だと思われなかったからである.

アメリカでは、太陽を表す色は、黄色だからである.

そして、これは世界的に共通するもので、多くの国では、黄色か橙色で太陽を描くことが多い.

実際、アルゼンチン、アンティグア・バブーダ、ウルグアイ、カザフスタン、キリバス、キルギス、ナミビア、

フィリピン、マケドニア、モンゴル、ルワンダの国旗には太陽が描かれているが、

これらは、すべて、黄色く塗られている.

また、ニジェールのそれは橙色である.

そして、これに対して、赤く塗られた太陽を描くのは、日本以外にはバングラディッシュとマラウイぐらいであり、

日常的に赤く太陽を描く国は、他にはタイぐらいである.

ミート・ボールというのは、多分、蔑視する目的での名称であろうが、

梅干を知らないアメリカ人にとって、赤い円形で思い出すものは、これぐらいしかなかったというのが、真相なのかもしれない.

2015.4/23

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#60

中華民国、ネパールの国旗にも太陽は描かれているが、これらの色は白である.

たしかに、中天に浮かぶ太陽は白く見えるから、この表現は頷けるものがある.

これらに対し、赤い太陽というのはあまり見ない.

もちろん、夕日や朝日が赤く見えることはある.

地球は球形であり、その引力によって保持されている空気の層も球形であるので、太陽光がその中を通る距離は、朝夕のほうが長い.

そして、空気の粒子は光を散乱させる.

中でも波長の短い青は散乱しやすい.

このため、空は青いのだが、朝夕は目に届くまでの距離が長いので、その青い光のほとんどが散乱してしまってしまう.

この結果、波長の長い赤や黄色が目に届くので、朝日や夕日は赤く見える.

しかし、朝日や夕日が黄色に染まるというのはよくあるが、真紅に染まるというのは、存外に少ない.

そして、そのように見える時は、大気に塵が多い時である.

塵の粒子は、より太陽光を散乱させるからである.

実際、1980年代の四日市の夕日は綺麗に赤く染まった.

当時は、四日市に入ると空気の匂いが全然違うぐらい、工場の煙突からいろいろなものが噴出していたのである.

2015.4/27

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#61

夕日とか、朝日とかを画像検索してみると分かるのだが、ほとんどが黄色で、赤いものは少ない.

赤い夕日とか、赤い朝日で検索すると、たしかに赤いものが出てくるが、それでも、その一部は黄色である.

もっとも、カメラの性格上、赤色が綺麗に出ないという可能性はある.

ただ、多分、世間の平均より落日を見ることは多いほうだと思うが、今日は赤いなと思うほどのものに出遭うことは少ない.

朝日にしろ、夕日にしろ、基本は黄色であり、赤は珍しいのである.

もちろん、中天に輝く太陽を赤く塗るというのは、ありえない姿である.

にもかかわらず、日本では太陽は赤いとなっている.

どうしてだろうか.

2015.4/28

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#62

旧軍旗や、自衛隊旗のように、光条を持つものを旭日旗と呼ぶ.

つまり、朝日である.

そして、日の丸も朝日であるとされる.

したがって、日本人は、たまに赤く染まる朝日に何らかの意味を見出したのかもしれない.

そして、昇る朝日は落日よりも縁起がよいとされたのだろう.

そういえば、マラウイ国旗の赤い太陽も朝日である.

しかし、この旗の場合、太陽は半円で表されており、日の出であることが、より視覚的に捉えやすい.

そして、この国の旗は2010年から12年にかけては、現在のものとは異なり、白い太陽が描かれたものであった.

この白い太陽は経済発展を意味するそうだが、半円ではなく、円形であり、中央にやや小さく描かれている.

バングラディッシュ国旗の意匠も日章旗と似ているが、円の面積が大きい

(この旗の意匠が日章旗に倣ったものだという記載が散見されるが、パラオのそれと同じく、現地ではそう考えられていないそうである).

したがって、朝日であると感覚的に分かりやすいし、この赤は、独立戦争で流れた血という意味もある.

ところが、日章旗の場合は、白旗の中央に赤丸があるので、朝日には見えにくい.

しかも、1999年に旗の縦横比を7:10だったのを2:3に変更した際に、それまで長さの1/100を旗竿側に寄せていた円を中心に変えている.

したがって、中天にありながら、赤い太陽ということになり、いささか不思議な図案ということになる.

2015.4/29

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#63

つまり、日本人はたまに見ることのできる、赤く染まる朝日を、太陽の普遍的な姿と捉えたということになる.

しかしながら、現存する日本最古の太陽像は金色である.

高松塚古墳の壁画に残る日月像がそれで、太陽が金箔を、月が銀箔を丸く切ったもので表されているからである.

そして、盗掘の際に削られたようだが、月像には蛙と兎を描いたと推定される痕跡がある.

一方、キトラ古墳にも同様の日月像があり、こちらの日像には三本脚の烏が描かれていたようである.

この、月に蛙と兎、日に烏を描くのは中国の伝統であるので、金の太陽も中国式の表現であるということになる

(三本脚の烏というと八咫烏を思い浮かべる人も多いと思うが、記紀には三本脚とは書かれていない).

この金の太陽は長らく使われたようで、13世紀末の「前九年合戦絵詞」にも描かれいる.

安倍貞任の軍扇に描かれたものがそれで、赤字に金の丸が描かれているのがそれである

(この画像はネット上にはないようだが、中央公論社刊「続日本絵巻大成」の17巻に収められており、そちらを参照した).

2015.4/30

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#64

その金色が、なぜ、赤色に変わったのかというと、金は、赤であったからと考えることができる.

もちろん、今、ここで言っている金はのことではなく、正真正銘ののことである.

何度か述べたように、古代においては、赤、青、黒、白以外に色の別はなかった.

そして、平安時代に黄色という名称が登場するのだが、それまでは黄色は赤の一部であった.

赤いは、明るいと同一の語源を持つと考えられているように、明るい色の総称であったからである.

そして、金色は、黄金という表記の示すように、黄色の一つであったので、これを赤と表記してもよかったわけである.

黄色は明るい色だからである.

ただ、本邦において、太陽が赤く塗られた例が、奈良時代にある.

他でもない、奈良法隆寺にある国宝玉虫厨子である.

2015.5/1

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#65

玉虫厨子の背面には須弥山が描かれている.

須弥山というのは、世界の中心にあるとされた山である.

もともとは古代インドの世界観の中にあり、スメールと呼ばれたものを音写したものである.

したがって、インドで発生した各種宗教に共通するもので、バラモン教、ジャイナ教、ヒンズー教にも同一概念はある.

このため、ヒンズー教の伝わったインドネシア、ジャワ島にもスメル山という火山があったりするが、須弥山というと仏教のそれである.

そして、須弥山は諸仏の座として考えられた結果、寺院で仏像の安置場所として模されたものを須弥壇というようになった.

仏壇というのは、この変形であるので、玉虫厨子に須弥山が描かれているのは、何の不思議もない.

ただ、この須弥山は、随分と中国の神仙世界の影響を受けたもののようで、須弥山というより崑崙山のようにも見える.

したがって、上部左右にある太陽と月に烏とか兎とかが描かれているのだが、この太陽が赤い丸で表現されているのである.

もちろん、烏が描かれているというのは、中国神話のそれであり、仏教に由来するものではない.

2015.5/2

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#66

「続日本紀」には、701年、文武天皇が朝賀の際に日像を掲げたとある.

これは「左日像青龍朱雀幡右月像玄武白虎幡」とあるように、月像、四神とともに掲げられたもので、中国式のものであった.

現存するものは写本のみであるが、室町時代に描かれたとされる「文安御即位調度之図」には、白地に赤い烏が描かれた円盤が載っている.

これが日像であり、旗や幟ではない.

そして、平城京大極殿前広場の発掘調査では、日月像や四神幡を立てた跡と見られる穴が見つかっている.

このあたりから考えると、太陽を赤く描くというのは、金色に描くのと同様に、中国の影響を受けたものであるということになる.

2015.5/3

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#67

馬王堆というのは、中国湖南省長沙にある漢代の墓である.

ここから出土した帛画には9ヶの赤く塗られた丸が描かれており、一番上の大きな赤丸には烏が描かれている.

これは中国神話にある太陽を射落とした話に基づくもので、すべて太陽を表している.

つまり、中国においても、太陽は赤かったのである.

また、李氏朝鮮時代の屏風に描かれた図柄に日月五峰図というものがある.

文字通り、日、月が五つの峰を持つ山とともに描かれているが、そこでも太陽は赤丸で示されているのである.

2015.5/5

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#68

本欄で、日常的に赤く太陽を描く国は、他にはタイぐらいであると書いたが、どうやら、これは間違いであるらしい.

というのは、ヴェトナムがそうらしいと書いてあるページを見つけたからである.

こうなると、隣国のラオスやカンボジア、それにビルマはどうなのだろうと思うのだが、こちらは分からなかった.

ただ、上海人に聞くと、太陽は赤く塗るそうである.

黒龍江省生まれの中国人にも聞いてみたが、言葉が通じなかった.

2015.5/10

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#69

韓国がどうであるかはよく分からない.

在日韓国、朝鮮籍の人は何人か知っているが、みんな、日本で生まれ育った人達で、日本語しか話さない.

当然、かの国で太陽が何色であるかというのは、日本人に聞くのと同じことになる.

ただ、太陽、イラストのハングル表記で調べると、たまに赤いのも混じるが、ほとんどが黄色である.

もっとも、太陽、イラストと日本語で画像検索してみると、存外に黄色が多い.

もし、日本語を解さない人が同様のことをやってみると、日本人も太陽を黄色に塗るのだという結論に達するだろうと思うぐらいである.

ただ、ハングル表記の画像検索では黄色が多いが、日月五峰図の例もあるので、伝統的には赤なのだろうと思う.

2015.5/11

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#70

もっとも、フィリピン人、インドネシア人に太陽の色はと聞くと、黄色と答える.

ただし、インドネシア国旗は赤白に塗り分けられたモナコと同一のものであるが(縦横比は異なる)、

古来、この色は太陽と月を表す色として親しまれていたともいう.

と同時に、赤は男性を、白は女性を示すともいう.

つまり、アジアは太陽を赤く描く文化圏だったのだが、植民地支配の中で黄色に変容していったのである.

2015.5/13

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#71

現存する最古の日の丸の旗とされるものが山梨県塩山市の雲峰寺に伝わっている.

伝承では、後冷泉天皇から源頼義に1056年に与えられたものが武田家に伝わったものとされる.

1056年というのは平安時代末期である.

ただし、あくまでも伝承であり、後冷泉から下賜されたという文書が残っているわけではない.

ただ、「見聞(けんもん)諸家紋」という室町時代後期の文書には次のように記されている.

永承五年.後冷泉院依勅.奥州安倍頼時攻.是時詣住吉社.新平復夷賊.干時有神託.賜旗一流.鎧一領.

永承5(1050)年、後冷泉院の勅により奥州の安倍頼時を攻めた際、住吉社に参詣し旗1流と鎧1領を賜ったというのである.

この後、この旗と鎧は神功皇后が使用したものでという、やにわには信じ難い話が続くのだが、これは箔付けのためである.

ただ、この鎧とされるものが一緒に展示されている.

楯無(たてなし)と称されるものであるが、この鎧は補修の跡は残っているものの、一部は平安時代のものとされる.

だとすれば、この鎧と対とされる旗も同時代のものだと思われるのだが、どうも違うらしい.

というのは、この時代の旗は流し旗と呼ばれるもので、上端を紐で竿に結わえた細長いものである.

ところが、この旗は一部が欠損しているが、正方形のものである.

しかも、源氏の白旗、平家の赤旗というように、当時は紋様を描いておらず、描くようになったのは鎌倉時代だという.

というわけで、この旗の製作年代は、もっと下るものなのだろうと思う.

2015.5/17

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#72

奈良県五條市に賀名生(あのう)の里歴史民俗資料館というのがあり、そこに1枚の日の丸の旗がある.

この旗については1800年以降に85冊が刊行された「集古十種」の旌旗(せいき)之部の中に、

大和国吉野郡賀名生郷和田村堀源次郎家蔵後醍醐天皇所賜御旗図、長3尺3寸7分幅2尺2寸3分と記されている.

つまり、後醍醐が吉野に逃げ出した際に同地に逗留し、その際に与えられたものということになる.

だとすれば1336年のことである.

2015.5/19

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#73

ただ、この旗には乳(ち)がある.

乳というのは、幟に用いられる輪のことである.

この輪を、旗の天と横にくっつけ、竿を通す.

すると、旗は風が吹いても、上へ押し上げられない限り、常に図柄が見えることになる.

つまり、流れ旗に比べると、格段に視認性が向上するのだが、このような幟形式の旗が出現するのは、戦国時代のことである.

室町時代までは、敵か味方かでよかったが、群雄割拠の戦国時代では、誰が敵で、誰が味方かを瞬時に判断する必要が生じる.

そのような中では、自軍の旗を相手に見せるということが重要になってくるのである.

したがって、幟旗の登場は歴史の必然であったのだが、この日の丸の旗が乳を持つということは、そのような目的で製作されたということである.

当然、この旗は後醍醐の時代のものであるはずはない.

2015.5/20

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#74

もちろん、後の時代になって乳をつけたという可能性はある.

しかし、この時代から戦国時代までには100年以上ある.

そういう長い年月が経った布に、新たに乳をつけられるだろうか.

もし、保存と品質がよくて、つけるのが可能だったとしても、天皇から下賜されたものに、そのような改変を加えるだろうか.

そのような視点でこの旗を眺めなおすと、否である.

つまり、この旗は、どれだけ下っても、戦国時代のものだという結論になるのである.

2015.5/21

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#75

清水寺縁起絵巻」は室町時代の1517年に描かれたものとされる.

この絵巻の巻上の最後に、日の丸を船腹と船首に描いた船が登場する.

これが、白地に赤の日の丸が本邦で描かれた最初であるが、実は、この船は蝦夷のものである.

しかも、坂上田村麻呂に対峙する蝦夷の船はかなり大型で、立派な構造物が載っている.

もちろん、この絵は、田村麻呂が阿弖流為(アテルイ)の軍勢に苦戦した793年から数百年後に描かれたものである.

したがって、史実を正確に反映して描かれたものとは思えない.

実際、蝦夷の軍勢の面構えは野獣としか思えない.

しかし、それにしても、なぜ蝦夷の船に日の丸なのだという疑問は付きまとう.

しかも、もう一度書くが、これが確認できる最古の白地に赤の日の丸なのである.

2015.5/23

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#76

#63に書いた安倍貞任は蝦夷であったという説がある.

そして、その軍扇に赤地に金の日の丸が描かれていたのは偶然だろうかと思う.

そのようなことを思うのは、安東康季(やすすえ)が奥州十三湊(とさみなと)日之本将軍と称していたからである.

そして、安東氏は安倍氏の後裔だからである.

2015.5/25

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#77

 「つぼのいしぶみ」というのは、壺の碑、石文とも表記される歌枕である.

歌枕というのは、和歌に詠まれた名所旧跡のことであるが、東北地方にあったらしい.

というのは、何人かの歌人がこの歌枕を詠んでいるが、実際に見て詠んだものはないからである.

たとえば、平安時代末期から鎌倉時代の初期に活躍した寂蓮は、

みちのおく壼のいしぶみありときくいづれか恋のさかひなるらむ

と、詠んでいる.

つまり、彼の時代には、すでに「ありときく」、伝説の存在になっているのである.

2019.5/29

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#78

1949年、青森県上北郡甲地村(現在は東北町)の川底から、「日本中央」と刻まれた高さ1.5mほどのが出てきたことがある.

同様のものは、江戸時代初期に宮城県宮城郡市川村(現在は多賀城市)からも出ている.

そして、そのどちらも「つぼのいしぶみ」であるとされるが、その真偽のほどは分からない.

ただ、「袖中抄」という本の巻19に、

顕昭云、いしぶみとは、みちのくの奥につぼのいしぶみ有り.

日本の(東の)果てと云り.

と、ある.

顕昭というのは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて勝也した僧侶で、この本の著者である.

そして、陸奥の奥地に「つぼのいしぶみ」があり、日本の(東の)果てであるとする.

この後、文章は、

但、田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云うと云へり

と、続く.

坂上田村麻呂が弓の弭(はず)で、石の表面に「日本の中央」と書いたと伝えられているというのである.

弭というのは、弓の両端部分を意味する語であるので、そのようなもので石に刻まれるほどの文字を書けるとは思えない.

したがって、これは伝説の域を出ない話となるが、ここに「日本の中央」と書いたというのは興味深い.

2015.5/30

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#79

その後、「袖中抄」は

「私云、みちの国は東のはてとおもへど、ゑぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ」と、続く.

東北地方にある碑文に「日本の中央」とあるのは、当時の常識からいっても不思議だったのであろう、

顕昭は、千島も含めて考えると、この付近が日本の中央になると考えたのである.

2015.6/1

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#80

ただ、1590年5月1日、小田原城を攻撃中の豊臣秀吉が母親の大政所に送った手紙に、

「小たはらの事はくわんとうひのもとまでのおきめにて候まゝほしころしに申付くべく候」と、ある.

小田原のことは、関東、日の本の置目(処分)まで兵糧攻めにするというのだが、問題は「ひのもと」である.

というのは、その前の同年4月13日の手紙では、

「小田原をひごろしにいたし候えば奥州までひまあき候間満足申すにおよばず候」とあるからである.

小田原を兵糧攻めにした後は奥州(攻撃)まではとあることを考えると、この「ひのもと」は奥州を指すと考えられるのである.

しかも、この4月13日の手紙は、

「日本三分の一ほど候ままこのときかたく年をとり候ても申しつけゆくゆくまでも天下の御ためよきようにいたし候」、

日本の1/3の面積を占める関東、奥州とあって、「日本」と「ひのもと」は別の場所であるように書かれているのである.

2015.6/2

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#81

日本には、「にほん」と「にっぽん」の2通りの読み方がある.

グルジアを英語読みのジョージアにしてくれという申し出があったのは記憶に新しいところだが、国の内と外で読み方が異なるのは珍しいことではない.

たとえば、フィンランドの国内名称はスオミであるし、ドイツは、ポルトガル語ではアレマーニャ、スペイン語ではアレマニアと呼ばれる.

日本も、海外ではジャパンだとか、ヤパンだとか、ハポンのように様々に読まれ、中国ではリーベン、韓国ではイルボンとなる.

しかし、日本の場合は、国内で異なるというのが珍しい.

自民党やNHKなどは「にっぽん」にこだわっているように思うが、日本社会党や日本共産党の名称は「にほん」であり、民放は「にほん」と言っている所が多いように思う(もっとも、「にっぽん」にこだわる民放もある).

では、政府寄りのところは「にっぽん」なのかというと、日本相撲協会、日本航空などは「にほん」と読むのが正しい.

また、最近は「にっぽん」に統一されているようだが、日本銀行は、行内では「にほん」と読まれていたようである(ただし、日本銀行券にはNippon Ginkoと表記されている).

2015.6/4

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#82

多言語国家の場合は各国語の読み方があるわけで、スイスの場合、国名がスイス語、ドイツ語、イタリア語、フランス語で異なっている.

そして、これら4語は公用語であるので、公用文は4種併記の国号が書かれるわけだが、記す余裕がない硬貨や切手では、Helvetiaとラテン語で表記されている.

したがって、ある意味、スイスよりも多言語国家である中国の場合は、中国という国名の発音が随分と違う可能性はあると思う.

もっとも、中国は、世界の中心であり、世界を支配しているという意識があったので、近世まで国号を持たなかったようである.

たしかに、漢だとか、隋だとか、唐だとかいうのは、国名ではなく、王朝名である.

また、中華というのも世界という意味であるので、中華民国成立時に、日本側がしばらく認めなかったという経緯がある.

2015.6/5

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#83

アイヌ語の話者もいるが、日本の場合は、実質的に単言語国家である.

にもかかわらず、国号の読み方が定まっていないというのは不思議な話である.

国称、国旗、国歌等は憲法で定めるのが世界の趨勢だと思うが、それもない.

一応、1934年に文部省臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「にっぽん」に統一しようと決議したこともあった.

しかし、どういう理由か知らないが、時の政府は、この決議を採択していない.

また、2009年には、どちらかに統一しないのかと聞かれた政府が、「どちらか一方に統一する必要はない」と答弁することを閣議決定している

(ちなみに、麻生内閣である).

したがって、「にほん」でも「にっぽん」でもよいわけであり、同一人物が双方を混用しても間違いではない.

実際、「にっぽん」と連呼する人でも、「にっぽん」語とは言わない.

しかし、これは昨今に始まった話ではない.

2015.6/7

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#83

室町時代には、「にほん」と「にっぽん」の両方の発音があったことが確認されている.

また、以前にも書いたが、「日葡辞書」等のポルトガル人が編んだ本の中では、もう一つ、「じっぽん」という発音があった.

そして、古代においては、もう一つ読み方があったはずである.

「やまと」である.

たとえば、ヤマトタケルノミコトは、「古事記」では倭建命と表記されるが、「日本書紀」では日本武尊と書かれている.

もちろん、日本武と書いて、ヤマトタケルと読むのであって、ニホンタケルとかニッポンタケルとか読んだわけではない.

2015.6/9

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#84

しかし、それだけではない.

他にも「ひのもと」という読みがある.

そして、この「ひのもと」は「宇津保物語」や「源氏物語」に登場するのが最初となっているが、

「万葉集」の319番歌にある「日本之山跡国乃鎮十方」は、「ひのもとのやまとのくにのしづめとも」と読むのが定説である.

2015.6/11

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#85

もちろん、この「ひのもと」は大和の枕詞でしかない.

「ひのもとの」として、大和を導き出すための言葉である.

日本と書いて「やまと」と読んだのも、この関係である.

飛ぶ鳥の明日香、春の日の滓鹿(かすが)、長谷の初瀬のような枕詞から、飛鳥、春日、長谷の漢字表記ができたと考えられているからである.

したがって、「ひのもと」は国号とは考えにくい.

日本は、「ひのもと」とも読めるというだけである.

2015.6/11

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#86

にもかかわらず、「ひのもと」が国号として使われないわけではない.

「日本一のこの槍を、呑み取るほどに呑むならば」というのは「黒田節」の一節だが、この日本一は「ひのもといち」と読む.

もちろん、日本一というのは、日本という国で一番のという意味である.

ただ、そうすると、「つぼのいしぶみ」に登場する「日本中央」の正体が分からなくなる.

奥州藤原氏に代表される東国は長く日本の政権の外にあり、別の国であった.

秀吉の手紙にあった「ひのもと」も、このことに由来する名称ともとれる.

だとすれば、日本という国の東に位置する異国も、また、日本と呼ばれていたことになる.

しかも、その東方にあった日本は、日の丸を使っていたのである.

確認できる最古の日の丸の江は、蝦夷の船に使われていたし、赤字に金の丸の軍扇を使った安倍貞任は蝦夷であったとされるからである.

2015.6/13

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#87

「日本書紀」は、一般に「にほんしょき」と読まれるが、これは正しくないのかもしれない.

#83に述べたように、「日本書紀」はヤマトタケルを日本武と書いているからである.

また、同書には「日本此云耶麻騰下皆傚此(日本、此を耶麻騰と云う.下、皆此に傚え)」とある.

日本、これを耶麻騰と読む.以下、これに倣えというのだが、耶麻騰はヤマトと読む.

だとすれば、「日本書紀」の「日本」もヤマトと読むべきではないかと思うからである.

2015.6/15

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#88

ヤマトンチュという言葉が、沖縄にある.

沖縄から見て、内地の人を意味する言葉だが、大和人と書く.

沖縄の言葉は、ヤマトンチュには分かりにくいが、昔の日本語を色濃く遺しているという.

しかし、だとすれば、なぜ、ニホンチュではないのかという疑問が生じる.

ただ、かつて、沖縄の人達にとって、内地は日本ではなく、大和だったのだと考えれば説明はつく.

そして、日本ではなく、大和が選ばれたのは、それが国名だったからであろう.

2015.6/19

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#89

隋の煬帝が、無礼であると怒った、

「日出処天子致書日没処天子(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す)」の「日出処」が、

日本の名の起こりであるとする主張がある.

たしかに、日本とは、日出ずる処、つまり、太陽の出る所である.

しかし、その後に唐に送った国書には、「東天皇敬白西皇帝(東の天皇、敬いて西の皇帝に白す)」とある.

この文書の書き出しは、天子が天皇、皇帝に、致すが白(もう)すに変わっているが、煬帝に送ったものと内容は一緒である.

だとすれば、日出ずる処は東と考えてもよい.

というのは、東は「ひむかし」と読まれ、その語源は「日向かし」であるとされるからである.

また、嵐、颪、木枯し等は「し」で終わっており、東は、西とともに同様の末尾を持つので、風の名を転用したものといわれる.

そこから考えると、「ひむかし」は「日向か」の風であり、太陽の出る方向から吹く風となる.

つまり、「日出処」は、単に方角を表す意味で書かれたものであり、国号ではなかったということになる.

2015.6/23

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#90

このことを端的に表すのが、呉である.

呉音とか、呉服という言葉があるように、呉は中国を意味する.

もちろん、呉というのは「三国志」で有名な、孫権が長江流域に樹立した国である.

しかし、現在では中華人民共和国江蘇省の長江以南の地を指す.

つまり、上海、南京という大都市を抱える人口密集地であるが、うち、南京は、かつての呉の首都健業である.

そして、この付近は日中間の距離がもっとも近い地域であり、かつて運航されていた長崎=上海間のフェリーで1日、飛行機だと1時間半しかかからない.

したがって、呉を中国の代表として使うのは、不思議なことではないのだが、問題は、呉を「くれ」と訓じるということである.

2015.6/27

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#91

もちろん、[呉れる」と書くのだから、「くれ」と読むのは当然だろうという意見もあるだろう.

ただ、中国語で、「くれる」に該当する語は給であり、呉ではない.

また、漢和辞典で調べてみると、呉は大口を開けて笑うという意味であり、娯の最初の字形であるとなっている.

そして、「くれる」は、「土左日記」に使われたのが最初のようであるが、ほとんどが平仮名表記である.

菅見の限りでは、「呉れる」という表記は、明治以降の文献しか見つからない.

したがって、江戸時代か、その後にできた使用法ではないかと思う.

2015.6/28

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#92

したがって、呉を「くれ」と読むので、洒落で呉れると書いたというのが真相であろう.

「くれる」から呉となったのではなく、呉を「くれ」と読むために、呉れるという漢字表記が生まれたのである.

では、呉れるではないとしたら、何が由来なのだろうか.

そこで、唐(から)に由来するという説がでてくる.

たしかに、「から」と「くれ」は音が似ているし、どちらも中国を意味する.

ただ、「から」は、本来、韓国を指した言葉である.

2015.7/4

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#93

これに対し、唐は「もろこし」と読まれている.

法事の際、わが家は浄土宗なので法然の遺訓である「一枚起請文」というのを読む.

その冒頭が「唐土(もろこし)我朝に」なので、私には馴染みのある言葉であるが、トウモロコシのほうが一般には通りがよいであろう.

これは、中国伝来の植物として、モロコシと名付けられたのが、同じ植物を意味するトウキビあたりと混同して、そうなったものであろう.

しかし、この名は、中国、中国を意味するわけだから、実に不思議な名称である.

しかも、その花を織田信長が鑑賞して喜んだという話があるように、ポルトガル人が持ち込んだものである.

2015.7/5

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#94

それはともかくとして、「もろこし」が「から」になったのは、「から」が他国を意味する語であったからという説がある.

「から」は、元来、伽羅という朝鮮半島南部にあった国で、加耶(かや)とも呼ばれていた地域である.

それが、先述のように韓国を指す語となり、やがて、他国を指すようになり、ついには中国を意味するようになったというのである.

そして、そのことを助けたのは、高麗(こま)という語が一般的になったからだというのである.

だとすると、唐を「から」と呼んだのは時代が下る.

実際、文献上、確かにそう読んだと認められるのは「源氏物語」である.

つまり、中国を「から」と読む前から呉は「くれ」と読まれていたのだから、呉の語源が「から」であるというのは、成立しにくい.

2015.7/8

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#95

したがって、呉は暮れるの意味だろうと思われる.

もっとも、呉という漢字にその意味がないのは、既述のとおりである.

ただ、中国を呉と呼び、その呼び方として「くれ」が使われていたというだけで、漢字の意味は関係ない.

そして、「くれ」と読まれたのは、日の暮れる方角、つまり、日本の西側に中国が位置するからであるという.

逆に、「ひのもと」とは、日の昇る方角であり、東の方角を意味する.

したがって、「東の天皇、敬いて西の皇帝に白す」は、「ひのもと」の天皇、敬いて「くれ」の皇帝に白すと読んでもよい.

つまり、「日出処」が、単に方角を表す意味で書かれたものであり、国号ではなかったのと同じで、日本もそうであったということになる.

2015.7/11

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#96

「ミイラ取りがミイラになる」というのは、連れ戻しに行った人が、そのまま帰ってこなくなるという諺である.

ミイラという言葉が使われているので、「時は金なり」のように、明治期に英語の諺を邦訳したものかと思っていたが、日本製であった.

しかも、「木乃伊(みいら)取り」という落語があり、初代の三遊亭円馬が演じていた.

この初代円馬は1880年に53歳で亡くなっている.

つまり、幕末から明治にかけての人となるのだから、この諺は、存外に古いということになる.

実際、この諺の初出を文献に求めると、近松半二という浄瑠璃作家に辿り着く.

彼の書いた「本朝二十四孝」の中の「四の切(しのきり)」に、この諺が出てくるからである.

そして、この作品の初演は1766年、つまり、江戸時代中期なのである.

また、「手まはしのよき身は焼けぬ木乃伊取」という俳諧も残っており、これは1693年頃のものとされる.

これだと、江戸開府から100年が経たないうちに、すでにミイラ取りという言葉があったということになる.

2015.7/16

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#97

ミイラそのものは、慶長10年代、つまり、1610-5年頃に書かれた「伴天連記」という本に登場するのが最初とされる.

「みいらと云油を持て参、是は諸病ふせぐ薬なりとて、ぜすきりしとのかうべにぬりたる其まなびに」とあるのが、それである.

ただ、「みいらと云油」とあるように、これは油の名である.

キリストの頭に塗ったことに学んだものとあるように、一種の聖油なのだろうが、万病を防ぐとは、なかなかに凄いものである.

しかし、たとえ聖油であったとしても、これは今日いう所のミイラではないことは確かである.

では、この「みいら」はどこから来たかというと、ポルトガル語のmirraに由来すると書かれている.

手近のポルトガル語辞典にこの語は載っていないが、mirrarという語にミルラのことだと記されている.

2015.7/18.

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#98

このミルラは、没薬(もつやく)とも称される植物由来の樹脂である.

精製した油は香油として使われ、殺菌作用を持つことから薬としても使われていた.

新約聖書「マタイ伝」によると、キリストが生まれたことを知った東方の3博士が持ってきた贈物は、黄金と、乳香と、この没薬であったとされる.

乳香も、没薬と似た香油であるが、これらが黄金とともに贈物になるということは、同等の価値を持つ物であったということになる.

また、「マルコ伝」には、磔にされるキリストに、兵士が没薬を混ぜた葡萄酒を差し出したが、これを断ったとある.

「伴天連記」にあるような、キリストの頭に塗ったという記述はなさそうだが、この「みいら」が没薬の意味であることは確かであろう.

2015.7/21

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#99

「伴天連記」から約20年後の1631年、林羅山が出した「多識編」という辞書に

「木乃伊、美知比登南蛮今云美伊良(木乃伊、みちひと、南蛮今言うところのミイラ)」とある.

   *原文は http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556077?tocOpened=1 の54コマ目にある.

木乃伊は「みちひと」と読み、南蛮人の言う「ミイラ」のことであるという意味だが、この「みちひと」は、蜜人の意味で、中国でミイラを意味する.

また、木乃伊も、中国でミイラを意味する語である.

英語のmummyと同根の語だと思うが、オランダ語でミイラをmummieと言うが、木乃伊は、この音訳であり、蜜人は、蜜で音を、人で意味を表したものである.

しかし、前回述べたように、「みいら」は、本来、没薬のことである.

それが羅山の誤解により、「みいら」がミイラの意味に使われるようになったのである.

そして、それが今日に至っており、日本では木乃伊と書いてミイラと読むことになったというわけである.

2015.3/23

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#100

もっとも、この間違いに気付かなかった人がいなかったわけではない.

たとえば、貝原益軒は1709年に出した「大和本草」に「紅毛医ノ曰、ミイラハ木乃伊ニアラスト云」と記している

(*原文は http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive01/pdf/b16.pdf の22コマ目にある).

西洋医は、(日本人のいう)ミイラは木乃伊ではないというのである.

多分、オランダ人である西洋医にしてみれば、没薬をミイラと言うのは分かるが、中国人のいう木乃伊をそう呼ぶのはおかしいとなるのは当然である.

日本語には、カステラ、テンプラ、トランプ、バッテラのように、本来の意味と全然違う意味で使われている言葉が多いので、驚きはしなかったかもしれないが.

しかし、益軒のこの見解は広まらなかった.

おそらく、益軒の時代には、ミイラという語がすでに定着していたのであろう.

そして、これは、現在に至るまで訂正されずに使われている.

ただし、英語のmummy等はアラビア語で瀝青(れきせい)、つまり、アスファルトを意味する語から来ており、没薬とは全然違う語である.

そして、世界中の言語で両者を混同しているのは、日本語だけなのである.

2015.7/24


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