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#293

「春眠を覚えず」は、孟浩然の「春暁」という漢詩の一節で、日本ではよく知られている.

もっとも、中国ではそれほど知られていないそうである.

ドイツ人がカール・ブッセを知らないほどではないのだろうが、孟浩然って誰となるそうだ.

それはともかくとして、#278で書いたように、は午前3時である.

したがって、次の「処処に啼鳥を聞く」の啼鳥は、鶏であって、一般に解されるように小鳥などではない.

2021.2/1

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#294

「百人一首」にも収められた清少納言の「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ」は、鶏鳴狗盗の故事にちなんでいる.

これは、斉の孟嘗君が逃亡を図った際、鶏の鳴き声をまねて函谷関の門番をだまし、門を開かせたというものである.

したがって、清少納言の和歌は、私をだまして逢おうとしても無理ですよの意味である.

しかし、この鳴き真似をしたのが夜明けでは意味がない.

門番が開けようと思っても、空が白んでいないことに不信感を持つからである.

「春眠を覚えず」のは、真っ暗なのである.

2021.2/2

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#295

そのような時刻に何の意味があるのかと思われるだろうが、中国の宮廷は日の出とともに仕事が始まった.

朝廷とか、王朝とかいう言葉にという字がついているのはそのためである.

しかし、そのためには、その前に起きなくてはいけない.

職場まで、距離がある人もいるだろうし、食事や身繕いも必要だからである.

つまり、というのは、日にちが変わる時刻というだけでなく、起き出す時刻でもあったのである.

そして、平安朝という言葉にという字がついているように、の意味は中国と同じであった.

しかし、そのような時刻から仕事を始めて大変であると思う人も多いだろうが、勤務時間は、基本、午前中だけである.

日本では、江戸時代には日の出の時刻と同義になっているが、役職にもよるが、勤務が夜明けから午前中だけというのは同じである.

これが、今日のようになったのは、欧米の基準に合わす必要が生じた明治以降であろう.

2021.2/3

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#296

もっとも、午前中で仕事が終わるのは一部だけである.

たとえば、藤原定家の日記「明月記」等を見ていても、一日中走り回っていて、家へ戻ったのが早暁という記載がある.

後の中納言ですらそのような状況であるから、下級役人などは残業を重ねるしかなかっただろうし、貧しい人は一日中働いていただろうと思う.

とはいえ、日の出とともに、百官の居並ぶ中に皇帝が現れ、決裁をしていくというシステムなので、午前中で充分なのも事実なのである.

日本の宮中は、それを真似したわけだが、百官は、日本では貴族だが、中国では科挙の合格者であるというのが大きく違う.

科挙というのは、中国の上級国家公務員試験であり、受験資格に門地は問われない.

したがって、貴族でなくても、皇帝の前に立てるのだが、科挙に合格するには大量の書物を読む必要がある.

一番難しい科挙の場合、倍率は3000倍にもなるので、それを用意することができ、優秀な家庭教師を揃え、仕事などせずにひたすらに学び続けられる環境にある者、つまり、富裕層でないと無理である.

もっとも、非常な優秀な子供がいた場合、富裕層がパトロンになる場合がある.

科挙に合格すると、栄誉だけでなく、大きな収入を得られるからである.

当然、パトロンになる側は見返りを期待して金を出すのである.

2021.2/5

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#297

中島敦の「山月記」に、主人公李徴は「天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた」とある.

天宝の末年は756年、前年に安禄山の乱がおき、この年、玄宗に代わって皇太子が粛宗として即位している.

虎榜は正式には龍虎榜といい、進士の合格者名を書いた札のことだが、この進士は科挙中最も難しいとされるものである.

中国には「三十老明経五十少進士」という言葉があり、明経科の試験に合格する人は30歳でも遅いほうだが、進士科に50歳で通るのは若いほうであるという.

したがって、李徴が「若くして」進士となったというのは、十代、二十代という意味ではないのかもしれない.

もっとも、「山月記」は「人虎伝」という唐代の小説を翻案したものだが、そこには「天宝十五載春於尚書右丞楊元榜下登進士第(天宝十五載の春、尚書右丞楊元の榜下に於いて、進士の第に登る)」とあるばかりで、若いとは書いてない.

ただし、「弱冠従州府貢(弱冠にして州府貢に従い)」、弱冠、つまり20歳で地方長官の推薦を受けてとする異文もあるので、これに従ったとも考えられる.

もっとも、「江南尉に補せられた」のは同一である.

2021.2/8

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#298

江南の長江の意味であるので、李徴は華南の尉に補せられたことになる.

尉は、軍事、警察の長官である.

したがって、江南地方の軍司令官、もしくは警察長官という意味であるが、さすがに江南全体のそれではないではあろう.

中国は、「好鉄不当釘好人不当兵(好鉄釘に当たらず、好人兵に当たらず)」、よい鉄は釘に使わないし、よい人は兵にならないという国である.

したがって、尉がよい職であるとはいわないが、初任でなるには範囲が広大すぎるからである.

おそらくは、県尉、郡尉と呼ばれた県や郡の尉であろう.

日本と違って、中国では郡のほうが県より規模が大きいが、いきなり県警本部長になったようなものである.

ただし、それは「山月記」によれば賤吏であり、「人虎伝」によれば卑僚ではある.

「若くして名を虎榜に連ね」た李徴は、もっと高位を期待していたのだろうが、この職には旨味がある.

賄賂が期待できるからである.

2021.2/9

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#299

うろ覚えで恐縮なのだが、西太后だったか誰かが、阿片戦争の林則徐を指して、賄賂を取らないなんて信じられないと評したという話を読んだ覚えがある.

賄賂を取れないのなら、誰が役人をするのだというのである.

現在の中華人民共和国では、収賄罪は死刑だそうで、それだけ深刻な問題なわけであるが、27歳で科挙に合格した林則徐は、1838年に欽差大臣となり、広東での賄賂を禁止した.

彼が解任された理由の一つに、このため、広東の商人からの賄賂が届かなくなった中央官僚が結託したからだというのがある.

当時、皇太子の側室だった西太后がこのように言ったというのなら、それを受けての発言だろうが、話ができすぎているので、本当かどうかは知らない.

ただ、初任の官僚を地方に送り込むのは、その人物の経済を豊かにし、中央での勤務での支障をなくす意味合いがあったのかもしれない.

賄賂もそうだが、配下の者達の衣糧を整えるのは、中央から派遣された役人の仕事だからである.

2021.2/10

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#300

兵や警察官の衣糧を管轄する役人は、麾下の人数が多いだけに、商人に狙われる.

粗悪な衣糧を規定の金額で納入できれば、大きな利益を得られるからである.

もちろん、納入業者を決めるのは役人だから、勢い、賄賂攻勢ということになる.

その中には、利益を折半どころか、その過半を要求する役人もいたはずである.

もっとも、これが県知事とかになると、税率を勝手に決めてしまう.

国庫や県に収める金額は決まっているので、その差額は自分の収入である.

巨富を得るのに、時間はかからない.

山月記」には、再び「一地方官吏の職を奉ずることになった」とあるが、「人虎伝」によると、生活に困窮した李徴は地方長官に助けを求めることになっている.

「徴在呉楚且歳余所獲饋遺甚多(徴呉楚に在りて、且に歳余ならんとす、獲る所の饋遺甚だ多し)」、李徴は呉、楚の地で1年あまりを過ごし、大量の饋遺(きい)を得たというのである.

饋遺とは、贈り物の意である.

つまり、賄賂である.

これが、訪ねた先の地方長官の力なのか、現在は無職だが、科挙に合格している李徴に対する先行投資かは知らないが、科挙に通ると、官僚になっていなくても儲かるのである.

2021.2/11

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#301

科挙は随代に始まり、清朝末期に廃止された.

その間、約1300年、中国人にとって、これに合格することが最大の夢であった.

その個人だけでなく、一族の中から一人でも合格すれば、その者が有力者になった際には、一族のために尽力してくれるからである.

逆に、合格しなければ、その人だけでなく、一族の未来にも影響するのだから、その重圧は大変なものであった.

「一将功成りて万骨枯る」の言葉で有名な曹松などは、合格した時には70歳を越えており、その後、幾許もなくして亡くなったというが、それでも合格した者はよい.

不合格者の中には、発狂したり、自殺したりする者も多かったのである.

そして、孟浩然もまた合格しなかった一人である.

2021.2/12

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#302

もし、孟浩然が科挙に合格し、官僚となっていたら、になったのも知らずに寝ているなどということは許されない.

点卯と呼ばれる早朝の点呼に、理由もなく欠席すれば重罪とされたからである.

そして、それは地方にあっても同様である.

地方は、地方なりに、その長官を長として同様の形態を取っていたからである.

したがって、この「を覚えず」は、「春は眠たくて」などというのんびりしたものではない.

「春眠」だからである.

科挙は、冬に行われる.

当然、春は新規合格者が集まる季節である.

その中に、自分もいるはずだったのに、落ちてしまって、自宅で寝ているしかないという悔恨の思いを表しているのである.

そう考えると、以下の句の意味も変わってくる.

そういう中を、自分を蔑むように鶏がを報せる.

思い返せば、私の人生は風雨の中にあった.

どれほど楽しいはずの時間を費やしたのだろうという自戒の意味にも取れるのである.

2021.2/13

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#303

もっとも、孟浩然の生涯を追うと、本当にそのような意味であったのかと思える部分はある.

この人物が、若い頃から隠棲を重ねているからである.

また、約束をすっぽかして朝廷への推薦を駄目にしたり、玄宗の前に出ても不平不満を詩にして怒らせたりとか、あまり、官吏になろうと汲々とした様子はない.

ただ、科挙は受けており、若い頃から40歳になるまで隠棲したのは科挙に落ちたからであると書いたものもある.

また、張九齢が荊州長史に左遷された際には招かれて仕官している.

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」を書いた李白も仕官できなかった口であるが、彼ほどの自然人ではなかったのかもしれない.

もっとも、「春暁」がいつ書かれたのか分からない以上、私の理解が正しいかどうかは不明であるが、#293で紹介した「春暁」のリンク先は、割と私の理解に近い.

このリンク先を作った人は、大学等で20年間に渡り中国語を教えていたそうだが、それ以上は分からない.

ただ、中国に精通した人物のようなので、似た理解になったことは心強く思っている.

2021.2/14

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#304

小川環樹先生の講義を取ったのは偶然である.

そして、先生の研究室にお邪魔したのは、加賀乙彦を陸軍幼年学校で教えられたと言われたからである.

もちろん、小川先生の兄弟に貝塚茂樹湯川秀樹がおられ、東北、京都大学で長らく教えられた中国文学の泰斗であるなどとは知らなかった.

京大を定年退職されてから、うちの学校にも非常勤で来て貰っていたのであろう.

メインである加賀乙彦を教えたという話も興味深かったが、本職の中国文学に関する話が面白かった.

特に、天高く馬肥ゆる秋というのは、その後に怖ろしきかなと続くのだという話は、40年近く経った今でも覚えている.

秋になると、馬に乗った匈奴が農作物を狙ってやってくると仰るのである.

また、中国の詩の主流は政治批判であるというのも興味深かった.

表面上は自然を讃えているだけのように見えても、実は政治を批判している.

政治を批判していなくても、裏の意味があるのが普通であるのだと仰ったのである.

もちろん、国文学科の学生だった私に中国文学が分かるわけもなかったが、興味は残った.

今回、「春暁」を取り上げてみたのも、先生の教えが耳に残っていたからである.

先生が鬼籍に入って随分となるが、ほんの少しでも覚えている者がいるというのもいいものかもしれないと思う.

2021.2/15

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#305

伊勢国壱志(いちし)郡阿射賀御厨(あざかのみくりや)は、現在の三重県松阪市大阿坂、小阿坂両町付近にあった伊勢神宮外宮の御厨である.

御厨とは、神宮の神饌を調える場所という意味であるが、実質的には荘園である.

現在の地名が大小阿坂町に分かれているように、平安時代に2分されて大小の阿射賀御厨となった.

建久3(1192)年の記録では、阿射賀御厨は前皇后宮大夫入道、藤原氏子両名が領家となっている.

領家とは、開発領主から寄進を受けた有力貴族、寺社のことだが、藤原氏子についてはよく分からない.

ただ、この記録によると、伊勢国壱志郡黒野、甚目(はだめ)、豊田、安濃田御厨と、付近一帯の領家にもなっているので、かなり有力な貴族であったのであろう.

一方、前皇后宮大夫入道といえば、「百人一首」に「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」という歌が収録された皇太后宮大夫俊成が思い起こされる.

1172年、後白河上皇の皇后宮忻子が皇太后となった際、俊成は皇后宮大夫から皇太后宮大夫となっており76年に出家している.

そして、俊成の死んだのが1204年なので、この1192年の時点では、この呼称にもっとも相応しい人物であるといえる.

また、藤原定家が小阿射賀御厨の領家になっているのも、この推定を裏付けてくれる.

もちろん、日本文学史を学んだ方なら御存知のことであるが、定家は、その俊成の歌を収めた「百人一首」の撰者であり、俊成の息子である.

2021.2/16

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#306

なぜ、定家が小阿射賀御厨の領家であることが分かるのかというと、彼の日記「明月記」に頻出するからである.

その中で、定家が派遣した厨司の言うことを地頭が受け入れず、農民と地頭との対立に挟まれて苦慮しているとある.

もっとも、公家であるから、どうしたらいいのかと思い悩むばかりで、根本的な解決策はとれていない.

ところが、幕府と宮廷の連絡役を務めていた大江(中原)広元が何か困っていることはないかと聞いてきたので、このことを訴えたらしい.

というのは、「吾妻鏡」の建保元(1214)年11月23日条に、地頭の渋谷左衛門尉に対して不法を停止せよと命令したとあるからである.

泣く子と地頭にはという諺があるが、その地頭も幕府には勝てない.

というより、これしきのことで、幕府が乗り出してくるということのほうが、渋谷左衛門尉にとっては驚きであったと思われる.

公家など、彼にとっては無視してもよい存在であるが、それは幕府にとっても同様であり、そのような存在に対して幕府が便宜を図ったからである.

では、なぜ、一介の公家に過ぎない定家に対して、幕府はそのようなことをしたのだろうか.

2021.2/17

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#307

一般に、3代将軍源実朝の歌の師匠は定家であり、その結びつきは強固であったから、定家の愁訴に対して迅速に反応したと考えられている.

たしかに、「吾妻鏡」の件の条には、定家が家伝秘蔵の「万葉集」を実朝に贈り、それを多いに喜んだとある.

地頭への対応の記述はその後なので、実朝は、その御礼に定家の愁訴に対応したようにも見える.

ただし、「明月記」のほうには、地頭との対立に終止符を打ってくれた御礼に贈ったとなっている.

また、これしきのことを「吾妻鏡」に載せるのだろうかとは思う.

「万葉集」が贈られたことは、慶事として記述されてもよいのだが、たかが一公卿と地頭の対立に幕府が介入したというのは、牛刀をもって鶏を割くようなものである.

本来、このようなことは自分で何とかするものであり、埒のあかない場合は、訴訟ということになる.

実際、この阿射賀御厨は対象ではないが、定家の孫の冷泉為相と二条為氏が荘園の所有を巡って争った際には訴訟になっている.

この訴訟のため、為相の母阿仏尼が高齢を押して鎌倉を訪ねた記録が「十六夜日記」と呼ばれるものだが、これに幕府が介入した気色はない.

というより、これが本来であり、幕府や将軍のような公的なものが、民事に加入しては統制がとれない.

まして、秘蔵の貴重書を贈られたのでというのでは、賄賂を取るのかということになる.

したがって、これは「明月記」にあるように、御礼として贈ったものである.

2021.2/18

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#308

「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録のように思われているが、実際には違う.

明治期の学者には、単なる日記であると評した人もいたようだが、当代の記録ですらない.

鎌倉時代末期、14世紀初頭辺りに、北条氏に近い人物によって書かれたものであるらしいが、その根拠として「明月記」が挙げられている.

この定家の有名な日記は、鎌倉時代には写本等が存在した形跡がなく、実物は京都の冷泉家に保管され続けているからである.

にもかかわらず、「吾妻鏡」には、「明月記」が出典と思われる記事が十数ヶ所存在する.

つまり、京都から出たはずがない日記の中身を「吾妻鏡」の著者は知ることができたのである.

では、都の人が書いたのかというと、幕府の中枢の事情を知りすぎている.

したがって、冷泉家と近い幕府中枢の人となるのだが、それが誰かというのは諸説あるが、「明月記」を鎌倉にもたらしたのは、当時の冷泉家の当主為相であろう.

というのは、娘は8代将軍久明親王に嫁いでおり、晩年は鎌倉の別宅に住んでいるからである.

為相が「明月記」の実物を、鎌倉まで持ってきたとは思えないが、抜き書きぐらいは渡しても不思議はないのである.

しかも、「明月記」に由来すると思われる部分は、#307にあるように、実朝の非を訴えるように曲解されたものばかりである.

2021.2/19

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#309

「吾妻鏡」が書かれたとされる時代は、元寇や、徳政令の失敗など、北条氏の力が弱まってきた時代でもある.

そのような中で、北条氏自らの正当性を主張することは喫緊の課題であった.

と同時に、頼朝、頼家、実朝の源氏の将軍は、特に頼朝以外の2人の死については北条氏が関わっているだけに、貶めるとともに、自らの評価を上げることも重要であった.

このため、利用されたのが各種の記録であり、特に「明月記」は、定家が実朝に歌の師匠であったことから、非常に重要であった.

しかも、この当時、「明月記」が冷泉家以外の人間に読まれるというのは、よほどのことがない限り許されない話なので、

そこにある話を曲解して載せることもできるという、非常に便利な日記でもあった.

このため、「吾妻鏡」を通して見る実朝の像は、猜疑心を持って読む必要が生じる.

たとえば、実朝といえば、万葉風というのが一般的な評価であるが、彼は定家に私淑した人物である.

そして、定家といえば、和歌のありとあらゆる手法を活用した、絢爛豪華な歌を詠む人である.

技法など無視して素朴に歌い上げる万葉風とは、正反対の位置に立つ歌人である.

実朝に秘蔵の「万葉集」を贈ったのは事実ではあるが、定家としては本歌取りの種として使うによいものという認識であったはずなのである.

であるから、「百人一首」に鎌倉右大臣の名で載せられた「世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも」も、

「万葉集」の「河の上のゆつ岩むらに草むさず常にもがもな常処女にて」と「世の中を常なきものと今そ知る奈良の都のうつろふ見れば」、

それに「古今集」の「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」を本歌取りしたものという認識の上に立たねばいけないのである.

実際、実朝の歌集「金槐和歌集」に収められた歌の多くは、万葉風ではない.

2021.2/21

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#310

冷泉為相と二条為氏との訴訟は、冷泉家の勝利に終わった.

しかし、その間に阿仏尼が死去するという長期にわたる争いであった.

そして、その長期の争いに終止符を打ったのは、「明月記」であったのかもしれない.

つまり、「明月記」により、実朝の人物像を貶めるような記述が可能になるからである.

また、現在、想定されている「吾妻鏡」の成立年代と、為相の活躍した時代が重なるからである.

そして、本来、天皇家は西国を支配することになっており、鎌倉幕府の支配は尾張、飛騨、加賀以東のみであったが、

元寇により西国にも兵を派遣する必要が生じており、その中枢を狙える人物を自分の側に抱き込むことができればとなるであろう.

為相が、鎌倉の歌壇を主導するとともに、先述のように将軍に娘を嫁がせており、祖父定家と同じ権中納言まで昇進した.

これは、父為家が、養父で、大納言にもなった西園寺公経が幕府寄りであり、その路線を踏襲して権大納言までなったことを考えると、既定の路線であったのかもしれない.

ただ、将軍家に娘を送り込むまでになったきっかけが、「明月記」であっても不思議はない.

もっとも、そのようなことがあったとしても、「吾妻鏡」に載せられることはないであろう.

この本には、北条家を貶めるような記述は載せられないからである.

2021.2/22


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