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#311

日本人が、明治になるまで肉食を全然しなかったというのは、常識となっている.

しかし、これは、明治になって庶民の苗字が初めてつけられたというのと同じく、事実に反する.

もちろん、日本人が有史以前から肉食をしていなかったという意味ではない.

たとえば、岩手県一関市の花泉遺跡からは、大はナウマン、小は野兎に至る旧石器時代の大量の骨が見つかっているが、その中には解体痕が残っているものがある.

骨から作った道具も見つかっているが、肉を食べるためと考えるのが自然であろう.

また、現在では、脂肪が数千年単位で安定したまま残るということが分かっている.

そして、残存脂肪酸を分析することにより、土器で何を料理したか、保存していたか、さらには、石器で何を切ったかまで分かるそうだ.

人糞の化石も見つかっており、この残存脂肪酸の分析から何を食べていたかも分かる.

それによると、縄文人はもとより、縄文後期に稲作が始まっても、肉食が盛んに行われていたそうである.

3世紀の「魏志倭人伝」にも「始死停喪十余日当時不食肉(始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食はず)」とある.

人が死ぬと、10日あまり服喪するが、その間、肉を食べないというのである.

逆に言えば、普段は食べていたということになる.

2021.7/8

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#312

その「魏志倭人伝」には、「その地になし」とある.

したがって、この時代の日本人はや羊の肉を食べることはできなかったし、馬肉も当然無理である.

実際、古代の日本人が食べていたのは、この中にはない、つまり、当時の日本に生息していた鹿である.

出土する獣骨の8割がこれであり、残りはもっと小さな動物である.

もっとも、日本の土壌は火山性であるため、骨が溶けやすいという特性があり、水の中にずっとあったというような条件が整わないと残りにくい.

そこで、調査区域の土を篩にかけて調べたところ、の歯が大量に出てきたことがある.

したがって、もっと調査が進むと、小型動物の割合が増える可能性はあるが、の獣骨はあまり出てこない.

これらは、狩りの対象としては重視されなかったか、何らかのタブーが存在したからであろう.

については絶滅しているので知見はないが、は見かけほど肉は多くはないそうで、その上、双方ともに狂暴である.

つまり、狩りの獲物としては手間がかかりすぎるのに、得るものが少ないということになる.

また、の語源は大神であるとされ、祭りをされる存在である.

したがって、何らかの崇敬を受けていた可能性はある.

これに対し、鹿は、その名の中に肉という意味の「しし」を含んでいる.

というのは、鹿は「かのしし」と古語で呼ばれており、「か」と呼ばれる動物の肉を意味する名を持つからである.

2021.7/10

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#313

宍戸という苗字は、有名な俳優がいるし、吉川英治が創造した宍戸梅軒なる剣客もいるので、わざわざ書くまでもないと思うが、「ししど」と読む.

この宍(しし)は肉の異体字で、「しし」は肉の和訓である.

そして、「しか」というのは、「かのしし」が転じたものとも、牡鹿を意味する語であったともいう.

もちろん、は「ゐ」と呼ぶ生き物の肉である.

また、カモシカも「かましし」とか「あおしし」と呼ばれていた.

これらの命名は、何よりも肉の供給源という重要性に由来するものと考えるしかない.

中でも、重要だったのは、鹿である.

「万葉集」では、鹿を「しし」と訓ずる例が多いからである.

もちろん、「万葉集」は万葉仮名で書かれているので、鹿と書いて「しし」と読むというのは後世の訓である.

したがって、「しか」と読んでいたかもしれないと思われる方も多いかと思うが、そういう訓が残されたのは、伝承なり、当時の常識があったからである.

ただ、柿本人麻呂の239番歌には「十六社者、伊波比拝目」とある.

「ししこそば、い匍(は)ひ拝(をろが)め」と読むのだが、この「しし」は、鹿であるとか、であるとか、あるいは、どちらかの獣であるとか、注釈書によって書いてあることが異なる.

しかしながら、これを肉と解したものは知らない.

肉が伏して拝むようにでは、歌にならないからである.

また、十六と書いて「しし」と読ますのは、4x4=16だからである.

四四十六と九九を使った戯訓で書かれているわけだが、この歌は名も猟路(かりじ)という狩猟場で詠まれている.

そして、狩りで得た獲物を剥製にして飾るためのものではないのは確かである.

2021.7/13

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#314

弥生時代になると、急にの出てくる割合が高まってくるが、これは豚である.

歯槽膿漏になっている、後頭部が高くなっているというような家畜化現象が起きているからである.

これは柔らかい餌を食べているために生じたものだが、を家畜化しただけですぐに生じるようなものではない.

ところが、日本の場合、しかいないところに、突然、豚が出現する.

その上、と豚との中間の性質を持つものも見つかっていない.

突然変異でないとすれば、海外から豚が導入されたということになる.

形態的には、長江下流域で出土する小型の豚に似ているというが、朝鮮半島で見つかっている最古の豚は紀元前6世紀のもので、日本の豚よりもはるかに新しい.

したがって、大陸から直接導入された可能性が高い.

現代にも残る飼という苗字は、これらを飼っていた古代の集団の名である.

大阪市飼野もそうである.

もっとも、豚が飼育されているからといって、日本人がこれを食用にしていたとは限らないだろうが、発掘される豚は、若い個体が多いので、食用であった可能性が高い.

また、平城京を警備する衛府(えふ)のトイレ跡からは、牛や豚を食べることによって感染する寄生虫の卵が見つかっている.

2021.7/15

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#315

豚と並んで、弥生時代に急激に出土量が増えるのが犬である.

縄文時代の犬は、柴犬の祖先とされる場合もあるが、船橋市飛ノ台史跡公園博物館縄文犬復元模型を見ると、似ているとは思えない.

もっとも、柴犬は、祖先であるにもっとも近い犬種であることがDNAの分析で判明しており、

その次に近いのがチャウチャウだというのだから、外形はあまり参考にならないのかもしれない.

それはともかくとして、縄文犬は体高38cmとかなり小さかったが、大事にされたようで、骨折を治してもらった痕があったり、埋葬されたものがあったりする.

家畜として飼われており、狩猟のよい供であったのであろう.

これに対し、弥生時代の犬は、体高47cmほどで、縄文犬とは異なる系統の犬である.

また、弥生犬は、埋葬どころか、解体痕があり、バラバラになって出土するので、食用にされていたというのが、最近の見解である.

燃という漢字の原型である然は、肉と火と犬で構成されている.

また、献は、旧字の獻から分かるように、甑(こしき)で調理した犬で、これを相手に差し出したことから献上の意味となった.

このように、中国をはじめとする東アジアでは、犬を食べる、もしくは、食べていた.

2021.7/17

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#316

この風習に対して、眉を顰める日本人は多いと思うが、フロイスが「日欧文化比較」に

日本人は野犬や、大猿、猫、生の海草などをよろこぶ」と明確に記しているように、戦国時代の日本人も犬を食べた

(なお、欧米では、海藻を食べる習慣はほとんどない).

それどころか、江戸時代初期の1636年の手書きの版が残る「料理物語」には、第五 獣(けだもの)ノ部に、「鹿、狸、川うそ、いぬ」とあるように、この時代においても食材であった.

また、「落穂集」という1727年に書かれた本では、大道寺友山という人物の若き日の回想として、江戸の町に犬はほとんどいなかったとしている.

その理由として、「もしたまさか見当たり候へば、武家町方共に下々のたべものには犬に増(まさ)りたる物はこれ無き如く

これあるにつき、各冬向きになに候へば見掛け次第に打ちころし、賞翫仕る」とある.

もし見かけたら、武士、町方に関わらず、打ち殺して食べていたというのである.

友山は1639年の生まれなので、生類憐れみの令で下火になったのかもしれないが、その後、犬の肉を食べる話というと、

太田南畝が19世紀初頭に書き残した「一話一言補遺」に、「薩摩にて狗(いぬ)を食する事」という一文があるぐらいである.

これは、「落穂集」の5年後の1732年に長崎に始まり、数年で日本中に広まった狂犬病が原因かもしれない.

あるいは、食べる者はいたが、西洋文明が入ってきたときに、犬の肉を食べるのは野蛮であるとなったからかもしれない.

2021.7/19

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#317

#311に書いた残存脂肪酸分析によると、土器の内側から海豚の脂肪が出てきたことがある.

また、の骨も出土するが、「古事記」、「日本書紀」にもという言葉が出てくる.

「宇陀の高城に罠はる、はさやらず、さやる」という、宇陀の高城に罠を仕掛けたら、ではなく、がかかったよという歌の一節である.

このと漢字で書かれているわけではなく、万葉仮名で書かれており、「古事記」では「区施羅」、「日本書紀」では「久治良」と表記されている.

このため、ではなく、古代朝鮮語でのことだとか、大型獣のことだとか、いや、山鯨、つまりのことだとか、いろいろな説がある.

宇陀は奈良県中東部の山地にあり、そのような場所でが捕れるというのは、あまりに突拍子もないことだからである.

うち、山鯨については江戸時代に登場する言葉なので論外だし、あとの2つについては、日本語の音韻変化としてありえない.

したがって、消去法でいくとそのものであるというのは、40年以上前に国文学科の一回生の時に講義で発表した.

原稿用紙2枚にも満たないレポートに優を貰ったのが、今でもこういうことを調べている遠因であるが、一つ、分からないことがあった.

その当時の日本人も捕をしていたかということである.

これについては、流れ着いたを利用していた可能性もあると思っていたが、長崎県壱岐原の辻遺跡から見つかった甕に、捕の様子らしきものが描かれていることが2000年に発表された.

また、6-7世紀に築かれたとされる、同じく壱岐鬼屋窪古墳の壁には、捕の様子が線刻されている.

さらに、宇陀からさほど遠くない、縄文晩期の橿原遺跡からもの骨が見つかっていることから考えても、古代人はを食べていたのだろうと思う.

2021.7/21

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#318

#311に出した花泉遺跡からハナイズミモリウシという野牛や、原牛の類いの骨は出てくるが、早くに絶滅した.

それから、5世紀の奈良県御所市の南郷遺跡で発掘された牛の骨まで、日本の牛には、長い空白期間がある.

6世紀になると、他にも出土するようになり、十数例と、ごく少数ではあるが埴輪も作られている.

ただ、太古の牛が突然甦るとも思えないので、これも渡来したものであろう.

にもかかわらず、神武東征記に牛を食べる話が出てくる.

弟猾大設牛酒、以労饗皇師焉(弟猾(おとうかし)大きに牛酒(しし)を設(もう)けて、皇師(みいくさ)を労(ねぎら)へ饗(みあえ)す)」という

「日本書紀」の記事で、#317の「宇陀の高城に」の歌の直前にある話である.

宇陀の弟猾が牛酒で磐余(いわれ)彦(後の神武天皇)を饗応したという話であるが、この牛酒を、牛乳で作った酒と解する人もいる.

しかし、それはあり得ない.

その直後に「天皇以其酒宍、班賜軍卒(天皇、其の酒宍(しし)を以て、軍卒に班(あか)ち賜ふ)」とあるからである.

つまり、その牛の肉や酒を兵士達に分け与えたと解しないと、「其の」の意味が通じないからである.

そして、牛酒、酒宍で「しし」と読ますのは、#313に記したように「しし」が肉の和訓だからである.

2021.7/23

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#319

記紀の記述を信じ、古代の天皇のそれぞれ百数十歳という年齢を受け入れるとすれば紀元前、実際には1〜3世紀がこの話の時代としては妥当なところだろう.

どちらにしろ、日本における牛の空白期である.

また、「古事記」の同じ話にこの場面がないことを考えても、後世の追加であることは容易に想定できる.

おそらくは、「日本書紀」では猛田(たけだ)県主、「古事記」では宇陀の水取(もいとり)の祖となる弟猾(「古事記」では弟宇迦斯)を顕彰するために、子孫が持ってきた話を挿入したのであろう.

しかし、土着の民である弟猾が貴重な存在である牛を持っており、今日の天皇家の祖とされる神武の軍勢が、それを屠って食べてしまうというのは、後者が蛮族のように見えてしまう.

実際、記紀の中では、土蜘蛛だとか、尾があるとか、散々に書かれているが、神武東征以前の大和を支配していたのは、そのような文化を持っていた人々だったのだと思う.

ただ、水取というのは、飲料水を司っていた下級役人である.

主水と書いて「もんど」と読ますのは、水取に敬称の殿(おとど)がくっついた「もひとりのおとど」から発生したものである.

その祖先である弟猾が、天皇に食料を捧げたと考えるのなら、そう不思議な話ではない.

したがって、この場面をもって、古代の日本人が牛を食べていた証拠とすることはできないが、「日本書紀」編纂の時代、天皇が牛肉を食べても疑問に思われなかったというのは指摘できる.

また、西日本の一部で、牛を「たじし」と呼んでおり、田宍、つまりは田の肉という意味であると考えられる.

したがって、牛もまた、肉食の対象となっていたということになる.

2021.7/26

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#320

もっとも、これは祭儀のためのものとも考えられる.

大阪市平野区の長原遺跡の7世紀後半の柱穴から、重なり合った牛の四肢骨が見つかっているからである.

これが、切り取った四肢をそのまま放り込んだのではないことは、その状態では入りきらない穴であることからも分かる.

きちんと肉を取った後の骨を、順序立てて入れないとそのようには入らないのである.

おそらくは、地鎮祭のようなものを実施した跡であろう.

また、「播磨国風土記」讃容(さよ)郡の項に「妹玉津日女命捕臥生鹿割其腹而種稲其血(妹玉津日女(ひめ)命、生ける鹿を捕り臥せて、その腹をさきて、その血に稲まきき)」とある.

鹿の生血の中に籾(もみ)を漬けて豊作を願う神事があったのであろう.

もっとも、これは食物神の死体から五穀が生じたという記紀の神話の別ヴァージョンだという意見もある.

ただ、同じく「播磨国風土記」加茂郡の条には、神が河川の水を引き込めばと言ったところ、土地の神が宍の血があるからよいと答えている.

讃容郡の場合は一晩でが生えたとあるので、動物の血に何らかの神性を感じていたのであろう.

また、斎部(いんべ)考成が807年に書いた「古語拾遺(21コマ)」には、の害を避けるためには「宜以牛宍置溝口(宜しく牛の宍を以つて溝口に置)」けとある.

田の溝口、つまり、取水口に牛肉を置けというのだから、害虫駆除の呪術があったのであろう.

2021.7/29

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#321

では、そのような祭儀に用いられた獣肉はどうなったのだろうか.

前回紹介した「古語拾遺(21コマ)」に「昔在神代大地主神営田之日以牛宍食田人(昔、神代に在るに大地主神の営田の日を以つて牛の宍を田人に食せしむ)」とある.

大地主の神が、田を造営する日に、田人(農夫)に肉を食わせたというのである.

営田と書いて、佃と同じく、「つくだ」と読む苗字があるが、これは、新たに田を作るという意味ではなく、田植え前の荒起こしや育苗のような農作業を始めるという意味であろう.

というのは、福岡県板付遺跡の弥生時代前期の水田跡からは、水位を調整する井堰が見つかっており、この話に登場する溝口も取水口を意味するからである.

したがって、この時代の田は湿田に種を蒔いて終わりという単純なものではなく、水を抜いたり、張ったりしていたということになる.

つまり、人工的に雨季と乾季を作り出すことによって、本来の稲の生育環境である熱帯に近い状態にして、収量を増やしていたのである.

しかし、そのためには、田を起こし、畦を修繕する必要がある.

また、「播磨国風土記」賀毛郡の項には、苗代を作るため、おそらくは元肥を作るためだろうと思われるが、草を敷き詰めるとある.

こういう作業には人員が必要であり、田植えの際には、さらなる人数が必要である.

そして、そのために集まった農夫達と会食(後段に饗とある)をするのが、古代の常だったのであろう.

実際、「播磨国風土記」揖保郡の項には「召筑紫田部令墾此地之時常以五月集聚此岡飲酒宴遊

(筑紫田部を召して墾(は)らしめし時、常に五月を以ちて、此の岡に集聚(つど)ひて飲酒(さかみづ)き宴遊(うたげ)しき)」とある.

毎年五月、現在の6月の田植えの時期に農夫を集めて宴会を行ったのである.

そして、神社の祭礼が、春と秋に行われるのは、まさしく、その名残りであろう.

酒肉は、労働の代償である.

もちろん、その際には、豊穣を願って神への祈りを捧げたはずである.

このために供えられたものを、神とともに人々が食するのを直会(なおらい)という.

この話では、その直会に肉が出されたということになる.

2021.8/1

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#322

これに対し、大歳神の子が、料理に唾(つば)を吐き、さらに父神に伝えた.

大歳神は怒り、その田にをもたらしたというのが、実は、前回の物語の前段である.

何が大歳神の怒りをもたらしたのかというと、直会に肉が出たことであろう.

ただ、生臭ものを出したのが問題なのかというと、そうとも限らない.

#320に示したように、蝗害に対して溝口に牛肉を置けと指示したのは、他ならぬ大歳神だからである.

この大歳神は、「古事記」では大年神と書かれているが、スサノオの子である.

一般に、正月に各家を訪ねてくる神として知られ、後には陰陽道の歳徳(としとく)神と習合する.

小正月に行われるとんど焼きの「とんど」はこの歳徳の転訛である.

また、最近は恵方巻きで知られるようになったが、恵方もこの神のいる方角のことである.

しかし、本来の大歳神は、全然、違う神である.

「万葉集」に「我が欲(ほ)りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙(ことあ)げせずとも登思(とし)は栄えむ」という歌がある.

望んでいた雨が降ってきたので、言挙げをしなくても登思は栄えるだろうというのだが、この万葉仮名で書いた登思を年と解すると意味が通じない.

登思は、穀類の意味だからである.

それが、穀物の収穫に1年を要したことから、年数の意味を持つようになったのである.

同様に、年という漢字も、象形文字では、穀物の実った穂を人が運んでいる姿に書かれており、本来は実りとか、収穫という意味であった.

もっとも、「万葉集」でも年数の意味で使っているところがあり、先行する「古事記」でも同様なので、この変化はかなり早かったと思えるし、

両方の意味が並列していた時代もあったはずである.

それが、穀物の意味が失われることにより、大歳神の神格が変化したのであろう.

したがって、「登思は栄える」は、豊作になるであり、大歳神は、穀物神である.

2021.8/3

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#323

この大歳神の子には、韓神(からかみ)、曽富理(そふり)神がいる.

韓神はその名の通り韓国の神、曽富理は、新羅を意味する徐伐(ソボル)、韓国の首都ソウルと関連する語である.

スサノオが高天原から天下った新羅の曽尸茂梨(そしもり)と関連付ける人も多い.

また、この2神は宮内省にあった園、韓の両神社の祭神であったと考えられている.

この両社は、平安遷都の際に遷座を拒否し「帝王を護り奉らむ」という託宣を出したことで知られる.

ただ、内裏に祭られていたのだから、もともとこの地にあったということになる.

そして、この地を支配していたのは渡来系の秦氏、遷都を行ったのは百済王家の血を引く桓武であるので、この「帝王」が誰を指しているかは明確である.

また、韓神、曽富理神と母親を同じくする子に、白日(しらひ)神、聖(ひじり)神がいる.

白日はもちろん太陽である.

聖は「日知り」と解されるので、太陽の運行や暦の神であり、いつ、種を蒔き、水を抜き、収穫するかを報せる神である.

他の子にも、田植え、灌漑、夏の日、穀類が伸びる等の意味を持つ名が並んでいる.

スサノオも、体毛を抜いて樹木にしたという神話が伝わっており、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の話も、もとは治水の話だったのではないかといわれている.

そして、大歳神の妹は宇迦之御魂神、つまり、稲荷神であるが、稲の字が示すように、食物神である.

つまり、スサノオ、大歳神、その子神というのは、農耕神の系統である.

また、大歳神の父と子は、ともに韓国と縁があるので、かの国から稲作が伝わったことを反映しているのかもしれない.

であるならば、大歳神の怒りの理由は、直会に肉が出てきたからというしかない.

しかし、韓国には直会の習慣がなかったのだろうか.

2021.8/5

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#324

犠牲という字には、牛や羊が入っている.

義という字などは、羊と鋸を表す我からなっており、羊の四肢を切り取っている形である.

そこから分かるように、中国では、神に祈る際には牛や羊が殺された.

また、祭は、テーブルを表す示、肉を意味する月、それに手の象形文字である又で構成されている.

テーブルの上に肉を置く図であり、こうしておくと神が天下ると考えたのである.

しかし、この肉は、神だけではなく、人々も食べた.

たとえば、大牢滋味という言葉がある.

大牢というのは、天子の社稷(しゃしょく)、つまり、土地神と穀物神の祭壇に供えられるもの、すなわち、牛、羊と豚を指す.

これに対し、諸侯は羊と豚からなる少牢を供えたのだが、この大牢は、滋味、御馳走であるというのである.

出典は王褒という前漢の文人の書いた頌(詩)の一節であるが、前漢というと、紀元前である.

つまり、2000年以上前の中国では、神に捧げられた供物を、神と一緒にか、下げられてからかは知らないが、人間も食べていたのである.

また、韓国の農耕儀礼を調べると会食を伴うものが多い.

もっとも、韓国で肉食が多くなるのは、高麗が元に占領されてからであるといわれる.

元は遊牧国家であり、肉食を基本としていたからである.

したがって、「古語拾遺」の時代、韓国で肉食を伴う農耕儀礼があったかどうかは分からない.

しかも、韓国の歴史書は1145年に書かれた「三国史記」が現存する最古のものであるため、古代の細かな民俗を確かめる方法がない.

ただ、儒教の重要な儀式に釈奠(せきてん)があり、肉を孔子に捧げ、会食する.

もちろん、韓国で儒教が大々的に受け入れられるのは李氏朝鮮からであるが、三国時代には一般化していた.

また、仏教が盛んであった高麗でも、経典を読んだ後、屠殺を禁じられていたにも関わらず、市中で肉を買ってと「高麗史」にある.

したがって、直会に近いものが韓国でも行われており、肉食も行われていたと考えてよい.

2021.8/8

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#325

速玉之男(はやたまのお)神というのは唾の神である.

八百万の神とはいうが、そのような神までいるのかと驚かれる向きもあろうかと思うが、日本神話には、血の神もいれば、尿の神もいる.

汗の神はいないように思うが、この速玉之男は、イザナミと離縁する際、イザナギが吐いた唾の神格化である.

そして、この神は、熊野速玉大社の社名の由来となった神である.

しかし、速玉大社というと、熊野権現の一つとして、中世に絶大な人気を誇った神社である.

特に後白河は34回、後鳥羽は28回にわたって詣でており、室町時代に伊勢詣でが盛んになってくるまで、最高の霊場であったはずである.

その社に祭られ、社名にまでなっている神が唾の神というのは、なんとも解せぬ話ではある.

しかしながら、熊野本宮大社の見解は、この唾の神が速玉大社の神であるとする.

また、この時、掃き清めた際に生まれた事解(ことわけ)之男神も本宮大社に祭られている.

本来、熊野はイザナギの墓所であり、その関連で祭られたとも考えることはできる.

しかし、それならばイザナギを祭ればいいのであって、たとえ、その神の子であったとしても、唾の神を、それも主神として祭るというのは、やはり、納得しにくい.

ただ、日本には、眉唾と称して、狐狸に騙されないように眉に唾を塗るとか、傷口を唾をつける、手に唾をつけて重い物を持ち上げるというのがある.

これらを、まじないの一種と考えると、いささか違う展開が見えてくる.

2021.8/14

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#326

たとえば、「古事記」の山幸彦の話に、玉を水を入れた器の底に吐き出すと唾で離れなくなるというのがある.

この話は、「日本書紀」には見えないが、山幸彦が帰る時、海神が釣り針を渡し、海幸彦に返す際には呪文を唱え、

「三下唾与之(三下(みたび)唾(つば)きて与へたまへ)」と教えるくだりがある.

その通りにすると、呪文の通りに海幸彦は風に煽られて溺れかけ、山幸彦に従うと約束するのである.

これらに共通するのは「固定する」である.

「古事記」の場合は玉を、「日本書紀」の場合は、その呪術を「固定する」のである.

そして、イザナギの場合は、イザナミとの離縁を確実にするために唾を吐くのである.

また、狐狸は人の眉毛を数えて騙すという.

このため、眉毛を唾で濡らして数えられなくすると、岡山県児島地方の言い伝えにある.

唾により、眉毛が固まって一本になってしまうのである.

この伝で行くと、傷口に唾をつけるのは傷口を塞ぐため、手に唾するのは接着力を高めて滑らないようにするためである.

実際には、傷口に黴菌が入りそうだし、かえって滑りやすくなりそうなのだが、これを呪術と考えると理解できる.

「聖書」でも、キリストが聾唖者や盲人を直したのは唾である.

そう考えていったとき、熊野牛王(ごおう)符熊野誓紙と呼ばれる熊野三山で配布される神札に思いが行く.

この札に起請文を書くと、最上級の約束になるからである.

2021.8/18

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#327

守札ともいうように、神社で貰う神札は護符である.

その護符であるはずの神札を起請文に使うことがある.

特に、牛王宝印は一枚の紙に印刷された物であるので、使い勝手がよかったのか、ほとんどがこれである.

文献に載る中では、「吾妻鏡」に載る義経の詫び状、いわゆる「腰越状」に「諸神諸社の牛王宝印の裏をもって(中略)数通の起請文を書き進ず」とある.

もっとも、「腰越状」自体が創作と見なされているが、東大寺文書の中にも僧が牛王宝印を使って1266年に起請文を書いたとある.

したがって、鎌倉時代末期とされる「吾妻鏡」編纂の時代、牛王法印の裏に誓詞を書くのは、一つの形式であったということになる.

中でも、熊野のものは権威があったようで、秀吉が臨終の前に、子の秀頼への忠誠を五大老、五奉行に誓わせたのもこれであるとされる.

また、1565年、朽木元網と同盟を結ぶため、浅井長政が父と連署して用いた浅井久政・同長政連署起請文というものが遺されている.

画像で分かるように、烏文字と呼ばれる烏と宝珠で書かれものであるが、この烏は熊野大社の神使である.

三山それぞれに意匠が異なり、各地の熊野神社も出しているので、同定は難しいが、

画像の烏文字は、熊野山宝印ではなく、那智滝宝印と読めるので、熊野那智大社のものであろう.

江戸時代になると、「三千世界の鴉を殺し主と添い寝がしてみたい」という都々逸があったように、遊女も使うようになるが、熊野は約束の神であったのである.

したがって、唾の神は、約定を「固定する」神と理解されていたのである.

2021.8/19

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#328

「日本書紀」に、木花開耶(このはなさくや)姫だけが、山幸彦、海幸彦の父邇邇芸(ににぎ)神に選ばれた際、

姉の磐長(いわなが)姫は「恥恨而唾泣(恥じ恨みて唾泣)」いたとある.

唾を吐き、泣き、人の命が花のように短くなれと言っているのである.

呪いである.

もちろん、醜さゆえに自分が選ばれず、帰されることになったことの怒りの発露とも取れるが、唾を吐き、泣くというのは、かなり不思議な所作である.

唾を吐くだけ、泣くだけならまだしも、それらを同時にするというのはしないのではないだろうか.

たとえ、怒りのあまりに狂乱の状態になったとしてもである.

したがって、磐長姫は、呪いを「固定する」ために唾を使ったと考えるべきである.

また、「古事記」には、大国主がムカデを噛み殺すふりをして、赤土を「唾出」してスサノオを騙すシーンがある.

この「唾出」は、単に吐き出すという意味でもよさそうだが、その前段で大国主は蛇の部屋、ムカデと蜂の部屋に入れられるが、

妻となったスサノオの娘須勢理毘売(すせりひめ)から与えられた比礼(ひれ)の呪力で脱している.

また、鏑矢を取りに行かされた際には、鼠の言葉から、火中からの脱出に成功している.

その直後、ムカデに見せかけて赤土を吐き出すだけでスサノオを騙せるというのは、少し安易である.

しかし、そこには書いてはないが、赤土を唾の呪力でムカデに見せかけたのだとしたらどうだろう.

また、その直後にスサノオは眠ってしまい、髪の毛をガリヴァーのように垂木に結ばれても起きなかったというのはどうだろう.

これこそ、体を「固定する」呪術ではないだろうか.

2021.8/22

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#329

スサノオと言えば、「日本書紀」にはもう一ヶ所、唾が登場する.

高天原でスサノオが暴れて追放される場面である.

この時、「有手端吉棄物足端凶棄物亦以唾為白和幣以洟為青和幣(手端(たなすゑ)の吉棄物(よしきらひもの)、足端(あなすゑ)の凶棄物(あしきらひもの)有り.

亦、唾を以ちて白和幣(しろにきて)と為し、洟(はな)を以ちて青和幣と為し)」たとある.

手足の爪を吉棄物、凶棄物とし、唾を白和幣、洟を青和幣としたというわけだが、棄物というのは、よく分からない.

棄という字を使っているが、棄て去るのではなく、唾と洟を和幣、神を祭るために枝に架ける布にするのだから、何らかの呪物と考えられる.

祓いに使用するのだから、棄てるでいいのではないかという論もあるが、そうすると唾と洟を和幣にした理由が分からなくなる.

「きらひもの」という和訓から考えると、魔が嫌う物というような意味かもしれない.

だとすれば、破邪のためのものかもしれないが、問題は唾と洟である.

洟というと、鼻水しか思いつかないからである.

そこで、涎と訳するものも多いが、白と青という色に由来するものだとすれば、鼻水となるからである.

今は、栄養状態がよいのであまりないが、昔は蛋白質不足に由来する青洟を垂らした子が多かった.

そして、楮(こうぞ)で作ったのが白和幣と、麻で作ったのが青和幣というが、麻の色は青洟の色に似ている.

古代においては、栄養状態がよくなかった可能性があるだけに余計なのだが、なぜ、そのようなものをいう困惑はある.

さりとて、スサノオがイザナギの鼻から生まれたからというのも、唾と並べてあるだけに説得力がない.

ただ、爪、唾と洟というのは、何らかの呪力を持つものとして考えられていたのではあろうとは思う.

この場合、唾に「固定する」力があると明確に示されているわけではないが、呪力を持つものと考えられていたのであろう.

2021.8/23

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#330

あと、記紀で唾が登場するのは「日本書紀」天智天皇の2年の鬼室福信の処刑のシーンである.

百済の鬼室福信は、謀反の疑いをかけられ、殺すべきと主張した達率という位を持つ徳執得という人物に唾を吐きかけ、

「腐狗癡奴(くちいぬかたくなやっこ)」と叫んだとある.

腐狗癡奴というのは、腐った犬のような愚かな奴ぐらいの意味だろう.

これが呪いの言葉ならば、磐長姫と同じくとなるが、単なる罵詈雑言の類いであろう.

もし、唾を吐かれた執得が、「火の鳥」の腐狗(ハリマ)のように、顔の皮を剥がれ、代わりに狼の顔をつけられたというのなら別だが、

そもそも、この人物は「日本書紀」の他の場面に登場しない.

他の本にも出てこない.

現存する韓国の史書にも出てこない.

福信を処刑すべきと主張し、唾を吐きかけられた.

それだけである.

したがって、記紀に登場する唾の話の中で、これだけが呪力を含んでいないということになる.

これは、神代の話でないこと、それに、他国の話だからであろう.

実際、掌に穴を開けて革紐を通してとあるが、こういうのはあまり記紀に見られない表現である.

もしかすると、百済の書を書き写したのかもしれないが、かの国の当時の書が残っていないので確認はできない.

ただ、神代の話で、唾が登場する話のほとんどが「固定する」呪術を含んでいるのだから、「古語拾遺」のこの話も同様であると考えられる.

2021.8/25

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#331

では、「古語拾遺(21コマ)」で、大歳神の子が「唾饗而還(饗(みあへ)に唾して還」ったのは、呪術だったのだろうか.

もちろん、鬼室福信のように罵詈雑言でもよい.

しかし、この話は、大歳神と大地主神との間で起きたことである.

神と神の間の出来事である.

それを児戯のように解するわけにはいかない.

また、その後に大歳神自らが害をもたらしている.

したがって、この唾は、呪術の類いであると考えたほうがよい.

では、そうであるのなら、何を「固定した」のだろうか.

もちろん、饗に唾したのだから、料理に対してなのだろうが、より直裁には、牛肉に対してである.

つまり、大歳神の子は、#326の山幸彦のように、牛肉を「固定した」のである.

結果、田人は肉を食べられなくなった.

なぜ、そのようなことをしたか.

大地主神としては、田人を饗応しようとしただけかもしれないが、これを祭と捉えると、その肉は、神への捧げ物でなくてはならなかったはずなのである.

これが、鹿肉や肉であったなら、そういう話にならなかったかもしれない.

しかし、ここに出されたのは牛肉なのである.

2021.8/27

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#332

牛肉は、#324に書いたように、中国では、天子だけが神に捧げられる最上級の供え物である.

日本でもそうであったかどうかは分からないが、動物の骨の出土状況から考えると、よほどのことがないと出てこない御馳走である.

それを直会として神とともに食べるというのなら分かる.

しかし、大地主の行為は、単なる田人への饗応でしかない.

また、神に祈るにしても、その神は誰であってもよいというものではなく、目的に合った神に対してでないといけない.

それどころか、本来、祭られるはずの神に届けられなかったら、神の怒りを呼ぶだけである.

神は嫉妬深いのである.

もちろん、そこに大地主神はいる.

しかし、この神は土地の神ではあっても、農耕神ではない.

豊穣を祈るのなら、農耕神を祭るべきであり、農耕神は大歳神なのである.

であるからこそ、大歳神の子は、田人に食べられる前に、まさしく、肉に「唾をつけた」のである.

そして、大歳神の神威を蔑ろにしている者がいると父神に伝えたのである.

したがって、唾をつける行為は、肉を損壊するためのものではなく、祭祀される権利の主張であったのである.

中国の大牢が、土地神と農耕神に捧げられたように、大地主神だけにではいけないのである.

そして、この話が「古語拾遺」に収められたのは、この書が、中臣氏が祭祀を独占しているが、

本来、著者斎部(いんべの)広成の一族が当たるべきであるという内容であるので、当然のことなのである.

ただ、この時代と現在では、唾をするという行為の意味合いが異なってしまったので、理解が難しくなっているのである.

2021.8/29

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#333

古代の人々は、肉をどのようにして食べたのだろうか.

焼肉という意見が多いだろうと思うが、日本の焼肉の歴史は存外に遅い.

1968年にエバラ食品工業が焼肉のたれを発売して一挙に普遍化したが、それまでは一般的ではなかったからである.

もちろん、韓国料理としての焼肉はあったが、韓国のそれは、プルコギと呼ばれる、たれに漬け込んだ肉を焼くものである.

プルコギというのは火肉という熟語の韓国読みだが、どちらかというと、焼肉よりすき焼きに近い.

しかも、それが日本に入ってきたのは1930年代である.

もっとも、バーベキュー、もちろん、これは数時間から丸1日かけて燻製する本来のものではなく、

英語でグリルgrillと呼ばれる直火焼きの意味だが、そういうものがあった可能性は否定できない.

実際、各地の遺跡から焼けた痕跡のある動物の骨が出土している.

ただ、古代、味付けに使えるものは限られていた.

醤油の前身、現在、ショッツルと呼ばれている魚醤に近いものは、弥生時代から存在したという説もあるが、文献上は701年の「大宝律令」に登場するのが最初である.

色利(いろり)と呼ばれる鰹の煮汁を煮立てたものもあり、平安中期の「和名類聚抄」に堅魚煎汁(かつおいろり)として登場するが、これも7世紀ぐらいまでしか遡れない.

味噌も弥生時代にあったという説もある.

ただ、未醤、つまり、醤油になっていないものを意味する語が味噌の語源とされ、液体状のものが奈良時代にはあった程度である.

酢の伝来も4-5世紀である.

砂糖も、鑑真が伝えたとあるが医療用であり、甘味料としては果物、甘茶や甘草などが使用していた.

しかしながら、こういったものから甘味分を抽出するのは、サトウキビのような糖分の多いものと違って、かなり大変だったようである.

つまり、これらは貴重品であり、有史以前において一般に使用できたとは限らない.

2021.9/1

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#334

したがって、古代の日本人が使用できた調味料は、もしかすると、塩だけかもしれない.

実際、「日本書紀」には鹿肉を塩蔵したと思われる記述がある.

ただ、岩塩がほとんどない日本では、海水に頼るしかないが、山間部では運んでくるしかない.

そして、鹿が獲れるのは山間部である.

また、獲れた鹿の肉を塩蔵するには、かなり大量の塩が必要だと思われるが、古代日本の製塩法は直煮製塩である.

たとえば、伊勢神宮に塩を奉納している内宮管轄の御塩殿神社のやり方は、濃くした海水をひたすら煮詰めて塩を取る方法である.

奈良時代に始まった藻塩を焼く方法ですらないので、古代日本の製塩法はこれであろうが、重労働である上に、生産量も多くない.

そのような貴重品を惜しみなく使う塩蔵は、中央に租税として送るというような事態がない限りしないであろう.

したがって、焼肉に使う程度の余裕はあったとしても、塩すら使わないものであったという可能性もある.

もちろん、「魏志倭人伝」には、山椒、生姜の類いが倭国に自生しているとあるし、大蒜(ニンニク)は4世紀の伝来と言われるが、蒜(ヒル)はあった.

ただ、「魏志倭人伝」には、倭人はこれらの使い方を知らないとするが、使い方を教えられれば使っただろうとは思う.

しかし、そういう味付けもしない焼肉がおいしいのだろうか.

2021.9/3

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#335

「雄略記」に「膳臣長野能作宍膾(膳(かしはでの)臣(おみ)長野能(よ)く宍(しし)膾(なます)を作)」るので、宍人部(ししひとべ)にしたとある.

記事は、膳、つまり、食料調達や調理を担当する臣である長野は、肉膾をうまく作るので、宍人部という獣肉の調理を担当する役職に就けたというものである.

この記事の前には、肉をうまく料理できる人がいないので、雄略が怒って御者を斬り殺したという物騒な話が前段にあるのだが、

当時の肉料理の代表は膾であったということになる.

もっとも、膾というと、大根と人参で作る紅白膾を想像する人も多いと思うが、この膾は、生肉を細く切ったものである.

実際、膾は、肉を表す月偏がついているように、中国では肉料理である.

この月は、#324で少し書いたが、天体の月ではなく、肉を意味する甲骨文字が変化したものである.

したがって、獣肉ではなく、魚を使う場合は鱠と魚偏になる.

「なます」という言葉も、「なましし」が変化したものと言われるので、日本語においても肉料理であった.

韓国でもそうで、肉膾と書いてユッケと読ます.

韓国の生肉料理として有名なあれである.

2021.9/5

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#336

これより先、「景行記」に登場する磐鹿六雁(いわかむつかり)は、本邦初の料理人とされる人である.

この人物が天皇に調進したのは、白蛤(しろうむぎ)の膾である.

白蛤は、ハマグリであるとか、アワビであるとか言われるが、どちらにしろ貝であるので、魚偏の鱠のほうが正しいのかもしれない.

ただし、「日本書紀」には「白蛤為膾而進之(白蛤の膾を為(つく)りて進(たてまつ)る)」と、肉月の膾が使われている.

そこまで漢字の使い分けをしなかったのだろうが、この話は、磐鹿六雁の子孫とされる高橋氏が789年に奏上したとされる「高橋氏文(うじぶみ)」にも載っている.

もっとも、こちらでは、白蛤が8尺(20cm強)と巨大なものとなっており、さらに、も加わっているが、

「為膾及煮焼雑造(膾を為り及(また)煮焼きして雑(くさぐさ)造り)」と記されている.

膾以外にも、煮焼きして様々なものを出したというのである.

したがって、肉もまた、膾以外にも煮焼きした可能性がある.

もっとも、古代の食事の形態を最も残しているのは、神社の供え物、神饌と呼ばれるものだと思うが、

これらは火を通さないのが普通であると言われる方もあるかもしれない.

しかし、これらは明治時代の祭式次第が定められてからのことである.

以前、別のところでも述べたが、2礼2拍手1礼もこの時に定められたものであり、社殿の向きが南向きか東向きになったのも、そうである.

しかしながら、出雲大社のように2礼4拍手1礼を正式とし、例祭では8拍手とするように、現在も古式に則って煮炊きされたものを供えるところはある.

これを熟饌とか、特殊神饌、古神饌と呼ぶが、上賀茂下鴨神社石清水八幡宮春日大社、率川(大神)神社等のが知られる.

2021.9/7

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#337

では、神社に肉を奉納などするのかと言われそうだが、ないわけではない.

たとえば、宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)神社、ここは#328で出した磐長姫が己の姿を映した鏡を放り投げ、それが落ちた地とされるが、の頭が奉納される.

現在もこの風俗は続いており、画像で見ると、なかなか立派な猪である.

私のように、庭先にが四肢を括られてぶら下がっている風景を見て育ったような田舎者は別として、大抵の人は引いてしまうのではないかと思うぐらいである.

しかし、これは古代から連綿として続いてきたものであろう.

というのは、ここは、江戸時代には人吉の相良家の領地であったが、1000m級の山に囲まれた交通隔絶の地であり、農地もないため、存在すら忘れられてきたからである.

実際、米良神楽とも呼ばれる銀鏡神楽は、宮崎県で最初に国の重要無形民俗文化財に指定されたほどの由緒を持っている.

したがって、この肉を奉納する行為というのは、古代の神社で当たり前に行われていた可能性がある.

実際、全国、約5700社とも2万5千社と言われる諏訪神社の中には、肉を奉納する風俗が残っているところがある.

たとえば、熊本県玉名市滑石の諏訪神社の猪喰(ししくい)祭では、現在では剥製になったが、を奉納し、直会の汁には、必ず、猪肉が入る.

また、千葉県君津市の諏訪神社の御狩祭(しし切りまち)では、現在は鶏肉に変わっているが、桶の中の獣肉を奪い合う.

2021.9/10

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#338

しかしながら、諏訪神社本宮である諏訪大社の御頭(おんとう)祭は、鹿肉を供える上に、その名前通り、切り取った5頭の鹿の頭を並べるという古式豊かなものである.

現在では、さすがに、生首ではなく、剥製を並べており、同時に供えられるなども、神社で飼っているものを使い、祭祀後は野に放っている.

しかし、これは本来の形であるはずがない.

というのは、この神社は鹿食免(かじきめん)と呼ばれる、肉を食べてもよいという免罪符を出していたからである.

そのような神社で行われる祭に使われる鹿の頭が剥製であるはずはなく、放鳥されるはずもないからである.

また、同大社では、元旦に川床を掘り返して捕まえた赤蛙を、社前で矢を射って殺すという神事を行っている.

これに対しては、動物保護団体から残酷であると抗議も出されているが、その抗議文への回答の中で、明治までは生首を使っていたと答えている.

実際、1784年にこの祭を見学した菅江真澄は「洲輪(すわ)の海」という記録を残しているが、その中に「鹿の頭七十五、真名板のうへにならぶ」との記述がある.

5頭どころか、75頭もの生首が並んでいたわけである.

当然、現在は冷凍のものが使われている鹿肉も、生肉であったはずである.

2021.9/13

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#339

前回、諏訪大社の御頭祭を古式豊かと書いたが、これには理由がある.

神籬(ひもろぎ)を、胙、膰とか、月+辰というように、肉月を含む漢字で表すからである.

特に胙は、本邦初の漢和辞典として平安時代に完成した「新撰字鏡(28コマ)」に、肉+乍の字形で載っており、「神祭余肉也」と記されている.

神祭の余肉、すなわち、祭祀時に神に供えた肉の残りというのだから、これは直会である.

また、神籬は祭祀の場という意味なので、祭で肉を供えるのは当たり前のことであったということになる.

もちろん、これらの字は、中国での祭祀の際に犠牲として捧げられた肉を指すために造字されたものである.

したがって、それを転用したと考えるのなら、肉月がつくのも当然ではないかという反論は可能である.

ただ、それならそれで、なぜ、字を変えなかったのだろうか.

「古事記」の大国主が須勢理毘売に歌う場面、その情景にある「繋御馬之鞍(繋げし御馬の鞍)」の鞍は、原文(48-9)では木+安と書いてある.

活字化する際に鞍に直したので、活字はもちろん、インターネット上にもほとんど見つからないと思うが、当時の日本では、鞍は皮革製ではなく、木製だったのである.

また、「御馬」と書いているが、御は中国では「車を走らせる」の意味である.

したがって、昔、運動会で御婦人席と書いてあるのを見つけた中国人が、日本人はあんな公開の場で婦人を御するのかと驚いたという話がある.

しかしながら、日本では、中国にはない敬語を表すために、御の字を転用しているわけで、馬を御するという意味ではない.

「日本書紀」は中国語が分かる人が書いたと言われるが、「古事記」はそうではないらしく、漢字の使用法は奔放である.

そして、「新撰字鏡」では肉+乍という字まで作っているのである.

もし、神籬に肉が出されないのなら、肉月や肉偏を改めればよいだけなのである.

*月+辰、肉+乍等は肉月に辰、肉偏に乍を意味する(月+辰は、ひもろぎを単漢字変換すれば出てくるが、環境依存文字であるため、表示されない場合に備えてこのように表記した).

2021.9/16

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#340

祝と書いて「はふり」と読む.

「日本国語大辞典」には「神社に属して神に仕える職」とある.

神職である.

歴史学者の喜田貞吉は、この「ハフリ」は「ホフリ」の義であると述べている.

ホフリは、屠るに由来する語である.

この語は「古事記」に「亦斬波布理其軍士、故号其地謂波布理曽能(亦、其の軍士を斬波布理(きりハフリ)き.故、其地を号けて波布理曽能と謂ふ)」と出てくる.

また、その軍兵を斬り屠(ほふ)ったので、その地を「はふりその」と名付けたというのである.

この「はふりその」は、「日本書紀」には羽振苑と出ているが、読み方は一緒である.

今、JR奈良線と、近鉄京都線の併走区間に、JR祝園(ほうその)駅と近鉄新祝園駅が位置する辺りであるが、「はふり」とは「殺す」という意味を持っていたことになる.

「日本国語大辞典」には「はふる」について、「ほふる(放)の連用形の名詞化したもの」とあるが、さらに、屠(はふ)る、葬(はぶ)るも同根であるとする.

「離れる、離れさせる」という意味で共通しているからである.

屠ると葬るは、動物と命との違いはあるが、その命を体から離れさすことであり、放るは棄てる、投げるの意味で、これも離れていく動きである.

祝は示偏と兄からなる.

示偏は、戦後の改革でネという字形に変わってしまったが、本来は示で、テーブルの形からきた象形文字である.

#324にも書いたが、祭という字はテーブルの上に肉を置く図であり、神が示+雷or電からなっているように、示は神に関係する文字につく.

そして、兄は頭の大きな人である.

頭は、頭(かしら)である.

ヘッドである.

つまり、祭の主催者である.

もっとも、兄はひざまずく人物で、世話をする人だという語源説もあるが、この場合でも、祭祀を行う人と考えられる.

つまり、祝は祭を行う人であり、同時に屠る人である.

何を屠るかというと、平安末期の「色葉字類抄https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885583(122コマ)」に「切肉鳥也」とある.

肉や鳥を切るのだから、獣から肉を「離れさせる」存在である.

つまり、古代の祭では、肉を出し、神とともに共食していたのである.

諏訪大社の御頭祭が古式豊かと称したのはこのためである.

2021.9/19

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#341

#337の玉名市の諏訪神社では、君津市の諏訪神社では鶏肉となっており、前者では汁として、後者では生肉の形で参拝者に供される.

そして、後者の場合、家に持ち帰って調理するそうだが、諏訪大社の場合、直会の鹿肉はそのまま出てくる.

一応、同大社の資料館である神(じん)長官守矢(もりや)史料館によると、直会に出されるものは、ミシャグジ神に捧げるものも含めて調理されているとのことである.

もっとも、若干、茹でたとか、炙ったとか、塩を振ったとかいうのも調理の一種である.

どの程度の調理だったのか分からないし、古くからそうであったかどうかも分からない.

ただ、君津市の諏訪神社の鶏肉が生であるのなら、これも、本来は生であったのかもしれない.

少なくとも、インターネット上の画像では生のように見えるが、にしたようにも見えない.

また、御頭祭の際には、御贄柱が立てられ、そこに御贄串に串刺しにされた鹿肉2kgが25本、合計で50kgが1ヶ月間置かれた後に削って供えられる.

削ってという部分でも分かるが、これは干し肉である.

干し肉は、脯、「ほしし」とか「ほじし」とか読むが、干し宍(ほししし)からきた語で、木簡等に登場しており、古代から知られていた.

ところで、学生さんが実際に作ってみた研究報告によると、生肉をそのまま干したのでは雑菌が発生するので、

塩蔵したり、茹でた物に塩をかけてから干したほうがよいとある.

つまり、この諏訪大社の方法ではいけないということになる.

しかも、先述のように、古代は塩も貴重品であったので、そのまま干していた可能性が高い.

もちろん、古代人の食品衛生に関する知識は薄く、それぐらいものともしなかったという考えもあるが、

実は、そのような下ごしらえをしなくても大丈夫だったのではないかと思っている.

2021.9/28

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#342

この研究報告では肉の薄切りを使用しているが、串刺しにされる鹿肉は2kgの肉塊である.

この肉塊と、実験に使われた薄肉では、条件が随分と異なる.

肉が駄目になるのは表面からだからである.

このため、レストランによっては、枝肉を仕入れてくる場合がある.

枝肉とは、皮と内臓を取り除いた肉のことで、木の枝に似てことからこの名があるが、1頭分あるので、かなり巨大である.

枝肉までいかなくても、肉塊で仕入れるレストランは多い.

もちろん、大抵のレストランでは、肉屋からその日の分か、数日分を仕入れるのだが、このような大きな肉塊だと、腐敗しても、表面を削るだけで食べられる.

そのようなことをするのは、屠殺してすぐの肉は硬くて食べられないからである.

死後硬直である.

このため、屠殺して数時間ならまだしも、それを越えるとかなり硬くなる.

したがって、ユッケのように生肉を食する場合でも、貯蔵した肉を使用するのである.

しかし、薄肉でそのようなことをしたら、可食部がなくなる.

また、熟成と呼ぶが、肉塊を長期間貯蔵することにより味がよくなるという効果もある.

場合によっては100日以上熟成する場合もあり、その場合、腐敗により3割以上が食用にならなくなるが、それを売り物にする所もある.

ただ、この熟成には、低温、高湿度と空気の循環が不可欠であり、素人の手を出せるようなものではない.

諏訪大社の場合、厳冬期の野外に串に刺して干すことによって条件をクリアさせていると思うが、鹿肉だからこそ可能なのであり、油脂分や水分の多い肉の場合は難しいであろう.

2021.10/4

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#343

干し肉の場合は湿度は少ない方がいいので、より作りやすいと思う.

では、その干し肉を、古代の日本人はどのようにして食べていたのだろうか.

たとえば、「もののけ姫」というアニメーション映画では、干し肉をそのまま囓っていたそうであるが、同様の食べ方をしていたのではないかと思われる.

もっとも、思うだけではいけないので、多少の考察は必要だと思うが、資料がない.

ただ、中華料理のように、乾物を戻して食べるというような手間のかかることはしていないと思う.

和食で、そのようなことをするのは干椎茸、干大根、乾瓢、海藻類等であるが、動物性のものでは金子(キンコ)ぐらいしか思いつかないからである.

しかも、金子の場合、光参と書いてもキンコと読むように、この調理法は、中国伝来のものであろうと思われる.

そして、これ以外の動物性の乾物は干物の類いになるので、干し肉も、戻して食べるというような手間はかけていないと思われる.

実際、平安末期から鎌倉時代に書かれた日本最古の料理書「厨事類記」にも、乾物を水で戻すような料理は載せられていない.

ただ、この本は料理書というより儀礼書であって、料理をどのように並べるかということには詳しいが、調理方法についてはあまり記載はない.

2021.10/7

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#344

それでも、乾物(からもの)とも呼ばれた干物については、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている群書類従本「厨事類記」の37-8コマに記述がある.

たとえば、焼、蒸、楚割である.

うち、焼は名前通り、石で焼いたタコの脚である.

については、なぜ蒸し物がと思われる方も多いと思うが、蒸した後に干したアワビである.

そして、楚割は「すはやり」とか「そはやり」とか読むが、「すわえ」、つまり、小枝のように細長く削いだ魚、

「延喜式」にはだとかだとかが出てくるが、それを干したものである.

また、39コマには、「海月、酒と塩とにて、めでたく洗ひて、方に切りて、を酒にひたして、其汁にてあふべし(原文片仮名)」とある.

クラゲは洗って四角く切り、カツオを浸した酒で和えるというわけなので、このカツオは生ではなく、干したものではないかといわれている.

つまり、今の節の原型であるが、これらはすべて魚介類であって、獣肉ではない.

しかたなく、37コマの干鳥を見ると、を塩をつけずに干し、削って食べるとある.

これだけで考えるのはいささか苦しいが、干し肉も塩蔵ではなく、そのまま干したものであり、薄く削いで食べていたのではないかと思う.

つまり、茹でたり、炙ったり、もちろん、戻したものではなく、味付けをしたものでもなさそうである.

2021.10/12

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#345

そのようなものがおいしいのかと思われるだろうが、肉の味がするだけで充分だったのではないかと思う.

デフォーの「ロビンソン漂流記」の中にフライディーという先住民が登場する.

他の部族に食われそうになった時にロビンソンに救われて召使いになるのだが、彼は調味料を拒否していた.

食物は、それだけで本来の味を持っており、わざわざ味付けをする必要はないというのである.

そして、その言葉を真に受けたのが私である.

小学生であったということもあるのだが、調味料というものを使わなくなったのである.

そして、これは今日まで続いているので、肉は肉、魚は魚で、そのものの味があるというフライディーの言葉には大いに頷くものがある.

もっとも、野菜などは、昨今のものは、調味料を使用する前提で栽培されているので、きわめて水っぽいものに成り果てている.

したがって、ほとんどの人は野菜本来の濃厚な味をご存じないと思うが、農家の出なので、夏の太陽の下で完熟したトマトのあくどいまでの味の濃さとかは覚えている.

このため、赤茄子(トマト)を村で最初に食ったが、あまりのまずさに石垣にぶつけて遊んだという祖母の話は、カゴメの創業者の蟹江一太郎の逸話とともに懐かしい.

陸軍を満期除隊になった蟹江は、上官に勧められて洋野菜の栽培に向かうが、トマトだけは売れなかった.

これをトマト・ソースに加工したのが躍進のきっかけだったという話だが、

これが20世紀初頭の話だから、日露戦争の提灯行列に参加したという祖母の話と時代が合致するからである.

それはともかくとして、熟成によって肉の味が複雑化するように、干し肉も、その製造の過程で味が変化していく.

それを楽しむのであれば、調味料は必要なかったと思う.

2021.10/17


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