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#383

死んだイザナミを追いかけて黄泉の国を訪ねた後、イザナギは禊(みそぎ)をしている.

誰かが死に、近親者が禊をするというのは、「魏志倭人伝」と同じであるので、やはり、死は穢れではないかと言われそうである.

もっとも、この禊の理由は、黄泉の国で穢れに触れたからであり、そこは否定しない.

しかし、イザナギは、死んだイザナミを追いかけて黄泉の国へ行ったが、出会ったイザナミに普通に話しかけている.

死が穢れであるのなら、黄泉の国へ行くということは、穢れた国へ行くということである.

しかし、そのような意識とか、覚悟のようなものは感じない.

そこで、記紀の中で禊ぎの場面を探してみたが、案外に少ない.

たとえば、このイザナギの話は「古事記」にしかないが、同書には、太子時代の応神天皇と、やはり太子だった反正天皇の2例が載っているだけである.

ともに自分の兄の殺害された記事の直後に載っている.

ただ、「古事記」では分かりににくいが、「日本書紀」によると、応神天皇の場合、その間、10年以上の歳月がある.

その上、事件当時は生まれているかどうかである.

これに対し、反正の場合は、叛乱を起こした兄を殺し、そのために使った隼人をだまし討ちにもしている.

このため、その穢れが原因で禊をしたのだと解釈するものが多いようである.

しかし、禊の直後に、応神は気比社、反正は石上(いそのかみ)神宮に参詣している.

気比は、記紀双方ともに大神とする越前国一宮である.

そして、石上は古代の武器庫であり、「日本書紀」で、伊勢出雲とともに、神宮と称せられる数少ない存在である.

先ほど書いたように、応神の場合は10年以上経ってから、反正は殺した翌日であるが、そのような所を訪れるからと考えたほうがよい.

2022.2/22

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#384

「日本書紀」の用例はさらに少なく、反正と天武天皇の2例しかないが、性格はやや異なる.

反正は妃の死の原因が、車持君(くるまもちのきみ)の職権乱用のためであるとして、禊をさせており、

天武は天神地祇を祭ろうとして、祓禊(ふっけい、みそぎはらえ)を行っている.

同じ、反正天皇の禊を扱っていても、記紀で採択された場所が異なるわけだが、ここでは「古事記」の3例だけを俎上に載せたい.

「日本書紀」の例は、本人が禊をするわけではなく、どこかに行こうというものではないからである.

また、この3例は、イザナギは黄泉の国へ行った後に、応神、反正は、神社という神域を行く前にと、

時間的な差異はあるが、ともに異世界への訪問という共通項があるからである.

そして、イザナギ以外は、参詣のため、兄弟殺し等の穢れを祓ってからでないといけないという意識が現れている.

逆にいうと、そういう参詣がなければ、人を殺したから禊をするというものではないということになる.

実際、記紀には人殺しの話がたくさんあって、武烈天皇などは妊婦の腹を裂いて胎児を見た等、異常なまでの残忍さを発揮しているが、禊をしたとは書かれてない.

ただ、この話は「日本書紀」にのみにあって、「古事記」にはない.

また、次の継体天皇は、武烈から10代遡った応神天皇の5世の孫と、遠縁ともいえないような存在である.

このため、騎馬民族征服王朝説をはじめとして、王朝が交代したと考える人も多い.

そうであるならば、先代の暴虐を強調して、自らの正統性を強調しようとした結果であるともいえる.

隋の煬帝、ネロ、織田信長等と同じく、次代の作者によって人物像を歪められた人物は多いからである.

それはともかく、殺人、それも、兄弟殺しすら禊の対象とならないのであるならば、禊は何のためにするものなのだろうか.

特に、イザナギは、何のために禊をしたのだろうか.

2022.2/23

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#385

イザナギがどのようなルートをたどって黄泉の国へ行ったかは記載がない.

逃げ帰る際には、黄泉比良坂(よもつひらさか)を通っているので、往路もそこを通ったのだろうと思うばかりである.

また、どうやって冥界に行ったのかという点も触れられていない.

イザナギが、黄泉比良坂に巨岩を置いて通れなくしたとあるので、それまでは自由に往還できたのであろう.

にもかかわらず、イザナミが戻らなかったのは、黄泉戸喫(よもつへぐい)をしたからである.

黄泉戸喫の戸喫は、竈(へ)食い、黄泉の国の竈で調理された食べ物と考えられている.

「霊異記」にも「黄竈火物(よもつへもの)」とあり、地獄から蘇生した僧が、これを食べるなと言われたと書かれている.

食べると、帰れなくなるというのである.

つまり、記紀と「霊異記」とは、黄泉と地獄と表記は違うが(もっとも、「霊異記」でも、黄泉戸喫とあるように、黄泉という表記は使われている)、

あの世の食べ物を食べると、この世に戻れないという点では一致している.

この点については、本居宣長は、あの世の食べ物は浄火ではないからだと述べているが、最近は共食という観点で論じられている.

共食とは、共同飲食のことであるが、一つの団体の中で共に食事をすることであり、直会(なおらい)も含まれる.

同じ釜の飯を食う仲間というわけであるが、逆に、そうでない者は仲間ではないということになる.

つまり、共食というのは、その団体に属しているということを確認するためのものであり、一度でも、他所の釜の飯を食べた者は、その途端に構成員から外される.

そして、あの世というのは、この世と異なる世界である.

当然、属するものが違うのだから、そちらの飯を食べたということは、この世のものではないということになる.

ところで、この話の筋書きは、ギリシャ神話のペルセポネの話と一緒であることで有名である.

彼女は冥界でザクロを食べてしまったので、冥界に属することになるが、してみると、共食による集団の確認というのは、洋の東西を問わないのかもしれない.

2022.2/24

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#386

「霊異記」には、他ならぬ作者景戒(きょうかい)の夢が載っていて、自分が死んで火葬されている場面を眺めていたとある.

肉体は燃え尽きようとしているのだから、これは、今でいう幽体分離である.

もちろん、夢だと断られているのだから、実際にそういうことが起きているわけではないであろうが、「霊異記」の冥界訪問の話は、これによるものと思われるものが多い.

神功皇后の三韓侵攻の記述には、住吉三神の荒魂(あらみたま)は先鋒として先行し、和魂(にぎみたま)は軍船に残って皇后を守ったとある.

したがって、こういう考えは昔からあったとなる.

イザナギの場合は、冥界に自ら出かけたのであろうが、神ならぬ身である人間は、肉体から遊離した魂が冥界に出かけたのでないかと思う.

しかし、生きている体から魂を引きはがすには、どうするのだろうか.

「喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く」というのは、このためのものではないだろうか.

酒を飲み、踊り続けることにより、集団陶酔していく中で、喪主は泣き叫び、神がかり状態になっていく.

そして、分離した魂は死者の霊魂を追いかける.

周囲は生き返ってこいと呼び続ける.

しかし、死者の霊魂はあの世で共食してしまう.

こうなれば集団の構成員でなくなるので、喪主の魂は戻ってくるしかないということになる.

この時、なぜ、肉を食べないのかは分からない.

もし、死者に戻って来いと呼びかけるのなら、こちらには、こういうおいしいものがあると示したほうが効果があるとは思う.

また、酒を出しておいて御馳走がないというのも不思議である.

肉は当時の御馳走ではないかと思うからである.

だとすれば、肉を食べないのは喪主だけなのかもしれない.

魂を分離させるためには、仮死状態に近づかせたほうが効果があるように思うからである.

2022.2/25

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#387

持衰も仮死状態に近い.

#381で紹介した、セラム島の少女もそうである.

ところで、身を綺麗にする、特に髪を梳(くしけず)るというのは、古代の日本人にとって重要なことであったように思う.

日本神話の中で、櫛は重要な地位を占めているからである.

たとえば、クシナダヒメは、ヤマタノオロチへの生贄として差し出されるところをスサノオに助け出されるが、この時、櫛となってスサノオの髪に隠されていた.

そして、クシナダヒメは、「古事記」では櫛名田比売と表記されるが、「日本書紀」では奇稲田姫と書かれているように、クシは、奇、「霊妙な」という意味も持つ.

また、ヤマトトトビモモソヒメは、夜ごと通ってくる者の本当の姿を見たいと思い、これに応えた大物主は姫の櫛箱の中に隠れていると答えている.

そして、何よりも、イザナギは黄泉の国で、櫛に火を点してイザナミの現在の姿を見、追いかけてくるイザナミの走路に櫛を投げつけて妨害するのである.

この霊妙な櫛を使わないということは、古代人にとって、非常に重要な、たとえば、生命活動を放棄するぐらいの意味を持っていたのかもしれない.

もし、そうなら、梳らないというのは死を意味する.

もっとも、実際には死んでいないのだから、仮死である.

当然、衣服は垢まみれになるだろうし、性交もしない.

セラム島の少女も、家から出ないのは、死んでいるという想定だからと考えることは可能である.

そういう中で、持衰が食事をしないのは分かるが、それを、肉を食べないと書かれたのは意味が分かりにくい.

仮死といっても、多少の生命維持活動は必要であるが、肉のような馳走を食べないという意味であろうか.

それとも、肉を食べるということは、他のものの生命を貰うということだから、より直截に生命に関わるという意味なのだろうか.

想定はできるが、判定材料がない.

2022.2/26

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#388

倭の葬儀で、喪主が死者の魂を追いかけるという想定が正しいのなら、持衰の魂も、セラム島の少女のように、船とともにあったのではないかと思う.

その船の現在の状況を知るためである.

電波通信も、それどころか、伝書鳩すら知られていない時代、遠隔地にある者の状況を知る方法としては、霊魂によるしかなかったのである.

もちろん、そのようなものは存在しないであろうが、仮死状態にある者には可能であると考えられたのではないか.

ただし、それが正しいとしても、仮死状態なので話すことができない.

その点、「古事記」に帰神(かむかがり、かみよせ)と記されている神懸りとは違う.

神が人の口を借りて託宣するのと違って、一般人の霊魂だからである.

このため、その状態を見て、船の状況を推測する以外に方法はない.

病気になれば船が困難に陥ったということであり、死んだら沈んだと判断するのである.

また、船が沈んだにも関わらず、その者が生きていたらおかしいので、きちんと通信していなかったことになって、殺されるわけである.

そして、この考えでいくと、持衰が乗船していたら意味がない.

もっとも、「魏志倭人伝」の書き方だと、乗船していたかどうか分かりにくい.

しかし、「後漢書」には「病疾の如き害に遭へば以て持衰が謹しまずと為し、便ち共に之を殺す」とある.

乗員が病気になるたびに殺されるのでは、持衰の成り手がない.

また、複数人が乗っているのでなければ、その後の航海の安全はどうなるのかと考えてしまう.

そして、セラム島の少女がそうであったように、持衰も近親者であったのであろう.

セラム島の例だと、少女は船と同じ村の出身である.

同じ釜の飯を食ったものでないと、船を追えないとのである.

また、他のものと違って、喪主のみが泣き叫び、死者の魂を追ったのであるのは、喪主が近親者だからである.

もちろん、イザナギ、イザナミは、既述のように、同時に生まれており、夫婦でもある.

2022.2/27

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#389

禊(みそぎ)は、重要な神事を行う前にするものである.

もっと軽くはなるが、参詣の際に手水をとるのも、一種の禊である.

祓いを受けるのもそうであるが、身の穢れを落とすためである.

そして、それは神社を参詣する時、また、神社の本殿内部に入る時にも必要な場合がある.

別の言い方をすると、異なる世界に入る時である.

神社、特に本殿の内部は神の領域である.

本来、人間の入るべき世界ではない.

このため、その境界を明確にするため、神域との境に川があることが多い.

伊勢神宮内宮の宇治橋が架かる五十鈴川や、上賀茂下鴨神社の御手洗(みたらし)川などが有名であるが、川がなくても、溝や水路がある場合も多い.

たとえば、太鼓橋の名称で親しまれる住吉大社の反橋(そりはし)の架かる場所は、かつてあった入江の名残ともいうが、堀である.

そして、この太鼓橋は、慶長年間に初めて架橋されたものだが、極端に反っており、足腰の弱い者には危険なほどである.

大宰府天満宮の心字池のように池の場合も多い.

そして、心字池に架かる3つの赤い橋のうちの2つも太鼓橋である.

このような形状になるのは、ここから神域であるということを強調するためである.

そして、それすらなかった時代には川を渡渉していたことになる.

強制的な禊である.

つまり、境界線は垣根でも、塀でもよかったのに、あえて、川や、堀や、溝のような水路を選んでいるのは、禊をしないと入れないですという意味なのである.

しかし、川というのは、もともと、境界ではないかと思われる人がいるかもしれないが、それは国境になるような大河だけである.

古代の郡は、川を挟んで両側に広がっている.

水利権が絡んでくるからである.

このため、川と川の間に郡境がある.

そして、その郡境は、現代の市町村境に継承されている場合がある.

川を境に郡を分割している場合も多いが、平地の何もないところが境と聞いて驚くことがあるのは、そういうわけである.

2022.2/28

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#389

異界との境は、ありふれた橋、坂、峠、辻等であることが多い.

たとえば、京都の一条房橋は、ごくごく普通の橋である.

下を流れる堀川など、あるかないかの細い流れで、安倍晴明が式神を隠した所とは到底思えない.

しかし、それは現在の京都しか知らないからである.

教科書等には、平安京の地図がしっかり描かれているので、完全にできあがっていたと思っている人が多いと思うが、それは明治以降の整備の結果である.

というのは、平安京の北西部は土地が低く、水害に遭いやすいためにほとんど開発できなかったからである.

このため、この辺りは広い敷地を持つ工場や学校、集合住宅等が多い.

千年の都であったとは思えないほどである.

しかし、JR花園駅と阪急西京極駅を結ぶ線が、平安京の西の境、京都駅から西に延びた線路が北上していくのが中央の通りである朱雀通り、

もう一度西に向きを変えるあたりの少し北側に大極殿があった(現在の京都御所は南北朝時代の1331年に始まる)という地理を考えると、ここも、洛内なのである.

したがって、桓武天皇は、平安京の範囲を定めたが、右京の多くの工事は後回しにしたということになる.

もしかしたら、着工すらしていないのかもしれない.

また、平安時代、朱雀大路より西は荒野だったという人もいるぐらいで、右京のほとんどは農地か荒蕪地であった.

そして、そのことを端的に示しているのが、秀吉が建設させた御土居(おどい)である.

御土居は、京都の町を23qにわたって囲む高さ3mの土塁である.

北側で平安京から大きくはみ出しているが、西側は右京の大半が入っていない.

もちろん、平安時代と秀吉の時代の間には、数百年の時が横たわっている.

しかし、平安時代には、すでに、御土居に囲まれた平安京以外の部分だけが実質的な都の範囲だったのである.

そして、それ以外は、人のあまり行きたがらない場所だったのである.

つまり、異界である.

2022.3/2

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#390

もっとも、一条戻橋のあるのは右京ではなく、左京である.

しかし、一条通は都の北端であり、この辺りでは、堀川より西はすでに異界であった.

京都御所のすぐ西側だがという指摘が来そうであるが、まさしく、そのような場所から異界は始まっていたのである.

式神云々は安倍晴明の死後に作られた話であろうが、彼の時代、すでにこの辺りは寂れていた.

また、今の晴明神社が安倍晴明の旧宅であったとするのなら、彼は異界の側に身を置いていたことになる.

ところで、式神だけでなく、さまざまな怪異がこの橋を舞台にしている.

たとえば、この戻橋という名前は三善清行の遺骸が、熊野から駆けつけてきた息子と出遭って、一時蘇生したという話に由来する.

また、「平家物語」では、頼光四天王の筆頭、渡辺綱が鬼と出遭った場所とする.

そして、「源平盛衰記」には、ここで橋占(はしうら)を行ったとある.

橋占とは、橋を通る人の会話を聞いて吉凶を占うものである.

異界との境ということは、神も通る.

したがって、その声を拾うことも可能だと考えられたからである.

ただし、これらは中世の話である.

古代、異界との境は海ではないかと思う.

日本神話を見ていると、山幸彦が綿津見(わたつみ)神宮を訪ねている.

綿津見とは海のことである.

そして、その帰還に際しては、ワニに乗って戻ってきている.

また、子を産むために山幸彦のもとを尋ねたトヨタマヒメの正体はワニであった.

因幡の白兎も、そのワニを使って海を渡ろうとしたが、失敗した.

出雲神話のスクナビコナは、ガガイモの実とされるアメノカガミノフネに乗って波の彼方からやって来た.

そして、こんな狭い海ぐらい跳び越えられるといったヤマトタケルの言葉に怒った海神は、嵐を起こし、オトタチバナヒメはその犠牲になった.

神話ではないが、初期の浦島伝説では、海の向こうの蓬莱に行ったとなっている.

これが、「万葉集」では、海若神之宮となっている.

この海若も「わたつみ」と読む.

龍宮城は、後世、海神が龍王となった結果であるが、海の向こうへ行ったり、逆にやって来ることは、古代の話にはよくあることなのである.

「魏志倭人伝」に「倭水人、好沈没捕魚蛤(倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好)」むとあるので、海は彼等の庭だったのかもしれない.

そして、浦島は戻ってきたが、もの凄い時間が経っていたように、そこは別の時間が流れる異世界である.

沖縄のニライカナイも海の向こうの異世界である.

したがって、本来の結界は海だったのであろう.

それが、時代が経つにつれて変化していき、中世には、ありふれた川も異界との境となってしまったのであろう.

2022.3/3

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#391

しかし、黄泉の国との境は、黄泉比良坂(よもつひらさか)ではないかと聞かれそうである.

この名のどこが海だというのかというわけである.

しかし、平たい坂というのは、不思議な名である.

そもそも、平たければ坂と呼ばないではないかと思う.

しかも、平坦なという意味の「ひら」の初出は、「枕草子」の「屋(や)のさま、いとひらにみじかく(家屋の様子がとても平たくて低く)」である.

平安時代中期である.

つまり、それより古い、黄泉比良坂の「ひら」は、平たいという意味ではないということになる.

実際、平坦は、古代では「なら」という.

平坦化することを「ならす」というが、その「なら」である.

奈良は古代朝鮮語で国を意味するnaraだともいわれているが、平城京の北部、京都府との境にある平らな丘陵を、平城山と書いて、「ならやま」と読む.

「日本書紀」に那羅山とある山であるが、「万葉集」では平山と書いて「ならやま」と読ましている.

このため、この「ひら」は、アイヌ語のピラpira、崖に由来すると考える人がいる.

北海道には豊平、赤平等の地名があるが、この平である.

もちろん、北海道の地名がアイヌ語に由来していても不思議はない.

東北地方、さらには関東あたりまでも、あり得る話である.

鈴鹿峠より東は関東だったから、この辺りの地名でも可能性はある.

しかし、それ以外はどうだろうと思われる方も多いと思う.

実際、地名に限らず、語源を調べるのはかなり難しい.

まして、アイヌ語説となると、自分でも胡散臭いと思う.

古代朝鮮語も古い音韻資料がないため、語源説に使うのは慎重になるが、アイヌ語の場合、話者は少なく、しかも、文字を持たなかったので、古代の音韻資料がほとんどない.

つまり、どのようにでも言えるが、立証が難しい.

ただ、アイヌ語と日本語の文法は似ている部分もあり、神とカムイkamuyのように似た言葉もある.

また、沖縄では坂のことを「びら」という.

「ひら」、「ふぃら」という言い方もある.

そして、アイヌ人と琉球人は、似たところが多い.

ゲノムの解析でも、琉球人、本土人、アイヌ人の比較では、琉球人のほうがアイヌ人に近いという結果が出ている.

したがって、後から来た本土人が、旧来の人々を南北の端っこに追いやったという筋書きが考えられる.

そう考えると、日本各地にアイヌ語が残っていても不思議ではない.

また、piraと沖縄の「びら」を同一語源に由来すると考えると、意味が似ていても不思議はないということになる.

ただし、古代の日本語が双方に残った結果であると考えても、同様の結果になる.

2022.3/4

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#392

では、畿内に、崖や坂を意味する「ひら」という地名が残っているかというと、大阪の枚方(ひらかた)市がそうであるという.

「ひらかた」とは、pira-ka-taで、崖の上という意味だというのである.

他にもいろいろな説があるが、この説が妥当だと思う理由は、「日本書紀」に比*羅**架駄(ひらかた)とあるからである.

また、「播磨国風土記」に「河内国茨田(まった)郡枚方里」とあるからである.

そして、これらが書かれた時代の「ひら」が平坦という意味ではない以上、他に語源を求めるべきだからである.

また、枚方市中心部、淀川と京街道を見下ろす万年寺山には高さ30mもある崖がある.

しかも、この小丘には古墳があり、推古天皇の時代に開かれ、廃仏毀釈でなくなった万年寺があったとされる.

そして、この万年は、和同開珎の次に発行された万年通宝が鋳造されたことに由来する.

この崖の上に中心地があったのなら、枚方の由来としては蓋然性が高い.

あと、現在は東大阪市になっている枚岡(ひらおか)市は、平らな岡という意味だと書かれている.

別段、それでいいようにも思うが、枚岡という名は、枚岡神社に由来する.

そして、枚岡神社は、元春日という別称を持つ.

藤原氏の氏神である春日大社は、もともとはここにあったというのである.

つまり、中臣氏の本来の氏神である.

そして、「続日本後紀」に平岡大神社、「延喜式神名帳」に枚岡神社と出てくる古い神社である.

しかも、生駒山地の西麓にあり、神域は丘陵である.

また、生駒山地には南北に走る活断層があり、活断層全体では上下に2-3mずれた形跡がある.

崖のある岡という意味であったとしても、不思議はない地形なのである.

そして、1995年の阪神淡路大震災を引き起こした野島断層で、最大規模のずれが残っているのは、

淡路市(旧北淡町)野島平林であるが、ここは海岸に山地が迫った地形である.

また、滋賀県の比良山にも活断層があり、崖が琵琶湖の西岸に迫っている.

山頂が平たく見えるので、平たい山でもいいように思えるが、万葉集に「比良宮、比良湊」と出てくる古い地名である.

これに対し、大阪平野区の平野は、宇治平等院の荘園だった平野庄に由来する.

平安時代の地名であり、際立って崖が目立つようような地形でもない.

ただ、大阪柏原(かしわら)市の平野は山麓にある.

崖のある、傾斜のある野の意味であろう.

そして、その近傍から流れ出る平野川は、大和川の付け替え以前には大きな川であり、その流域にある平野庄の由来であったとすると、話は違ってくる.

もっとも、柏原市の平野がいつからあるのか、百済川とも呼ばれた平野川の名称がどこまで遡れるのかという点を立証する必要があるので、単なる思いつきでしかないかもしれないが.

*羅は手偏がある.

**架は木の部分が可.

2022.3/5

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#393

昔、京都の帷子(かたびら)ノ辻の近くに住んでいた.

嵯峨天皇の皇后、檀林皇后嘉智子の遺骸がここに置かれ、諸行無常を伝えるために、死体が腐っていく様子を人々に見せたという話で有名な場所である.

ところが、「ひら」が崖であるという例に、ここが出てきた.

言われてみれば、京福電鉄嵯峨野線の線路沿いは、片方が崖である.

片平という苗字は、そのような場所から出てきたといわれるが、帷子は、その書き換えであるというのである.

歴史的仮名遣いでは、清音と濁音の区別がつけられなかったので、「かたびら」は「かたひら」と同音となるからである.

そう思って、檀林皇后の話を見直すと、嵯峨は桓武の子なので平安初期の話になるが、その時代に諸行無常とはと思う.

もちろん、経典にはそういう教えはあるが、これが中世ならいざ知らず、平安時代に広まっているのだろうかと思う.

たとえば、「霊異記」は、奈良時代末期から平安初期のものなので、少し先行するが、因果応報はあっても、諸行無常はない.

平安末期の「今昔物語」にもないが、「宇治拾遺物語」には、鬼が「諸行無常」と言いながら通っていったとある.

「宇治拾遺」は鎌倉前期、「諸行無常の響きあり」で有名な「平家物語」は同末期の成立である.

つまり、諸行無常という教えが人々に広がるのは、早くて平安末期であり、檀林皇后の時代は、それよりも数百年早いのである.

また、この檀林皇后の話がいつ広まったのか分からなかったが、その様子を絵画にした京都西福寺の「檀林皇后九相図」は、江戸時代のものである.

つまり、この帷子を経帷子と理解して作った話と考えたほうがよい.

しかし、本来の帷子は、昔の貴族が顔を見られないように垂れ下げてあった布のことである.

軍が天皇に意見を言うことを帷幄(いあく)上奏といったが、この帷も垂れ幕である.

そして、帷という漢字は「日本書紀」にも登場し、孝徳天皇の薄葬の詔の中に

「其葬時帷帳等用白布(其の葬(はぶ)らむ時の帷帳等に白布を用ゐよ)」とあるが、帷帳に「かたびらかきしろ」と訓をつけた本がある.

もし、ここが片平と呼ばれる場所であるのなら、それが帷子に変わったのは、かなり昔であったということになる.

もっとも、帷子ノ辻がいつ頃から使われた地名かは不明であり、この名は江戸時代ぐらいまでしか遡れないようである.

ただ、近傍には蛇塚という巨大な石室で有名な古墳があり、広隆寺や蚕ノ社も近くにある.

つまり、平安遷都以前にこの地を支配した秦氏の本拠地であったので、この地名がかなり遡れる可能性はある.

もっとも、この地名が平安時代の記録に残っていたなどという僥倖がない限り、妄想でしかないのも事実であるが.

2022.3/6

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#394

しかし、黄泉比良坂は違う.

この黄泉比良坂という表記は「古事記」のもので、「日本書紀」には泉津平坂とあるが、「よもつひらさか」という読みは共通している.

もちろん、この両書は日本最古の書である.

「古事記」は712年、「日本書紀」は720年、平城遷都は710年であるので、奈良時代初頭の書である.

そして、#391に述べたように、この時代、平坦を意味した言葉は「なら」であって、「ひら」ではない.

また、アイヌ語由来説が認められないとしても、平らな坂ではなく、険しい崖のある坂道と考えるべき名である.

これも、海のように、人のたどり着くのも難しいような所が境界とされた結果であろう.

単なる峠や坂がそうなるのは、その変形であろうが、それでも太鼓橋のように険峻なものにするのはその名残かもしれない.

そして、興味深いのは、黄泉比良坂が、「古事記」にもう一回出てくることである.

#328に書いた、大国主(オオナムチ)が根の国のスサノオを訪問し、逃げ出した時のことである.

スサノオは、娘のスセリビメとともに逃げ出した大国主をこの坂まで追いかけてくるのである.

そこから考えると、この坂は、黄泉の国と根の国の両方に繋がっていたということになる.

それどころか、黄泉の国と根の国とが同一のものではないかという説はいろいろな人から出ている.

というのは、スサノオが自分の母の国根堅州国と言っているからである.

ところが、この神は、イザナギが黄泉の国から戻ってきて沐浴した際、鼻から産まれたとなっており、母はいない.

そこで、イザナギの妻であるイザナミを母と考えると、死んで黄泉の国にいる.

また、スサノオは根の国にいるのだから、根堅州国は黄泉の国ということになるわけである.

そして、もっと興味深いのは、「六月晦大祓(みなづきのつごもりのおほはらひ)祝詞」である.

これは、旧暦六月の夏越の祓(なごしのはらえ)で使われる祝詞であるが、「延喜式」に記載されている古いものである.

内容は、年越しから、これまでの人の罪過や穢れを、川から海へ流してしまおうというものである.

そして、その最後のほうに「気吹戸(いぶきど)に坐(いま)す気吹主(いぶきどぬし)と云ふ神、根国底之国に気吹放てむ」とある.

海深くに飲み込んだのなら、気吹主という神が根国底之国に吹き流してくれるというのだが、根国底之国とは根の国と同一であろう.

つまり、黄泉の国と根の国の出入口は黄泉比良坂だが、海底という伝承もあったということである.

いや、もしかしたら、黄泉比良坂は海にあったのかもしれない.

2022.3/7

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#395

というのは、黄泉比良坂とあるので坂だと考えられているが、この坂は、「さか」という音を表すだけとも考えられるからである.

そして、「日本書紀」で天津磐境(あまついわさか)、「古事記」で海坂(うなさか)等で、境を「さか」と読んでいる.

この「さか」は、裂くに由来すると考えられており、その動詞化した「さかふ」の連用形「さかひ」から境が出たと考えられている.

また、複合語でしか用例がないこともあって、「さかひ」に先行する語であったと考えられている.

つまり、記紀の時代においても古語であったというわけであるが、「古事記」の例では、海坂と坂という漢字を使っている.

これは、トヨタマヒメが、山幸彦の子を産もうとして、本来のワニの姿になったところを見られたことから、

「即塞海坂而返入(すなはち海坂を塞(さ)へて返り入りましき)」、海坂を塞いで帰っていったとする部分で使われている.

これを海中の坂と考える人はまずいないであろう.

海との境と考えないと意味が取れないからである.

では、黄泉比良坂の坂はどちらの意味であったのだろうか.

この比良を崖と解すると、そこを斜めに登っていく図を考えるのだが、そういうものが古代にあったのかと思う.

あるいは、必要だったのかと思う.

さりとて、坂と解すると、意味が重なってしまう.

しかし、境と考えると、陸と海を裂くがごとくに聳え立つ崖、海蝕崖が想起される.

そして、海蝕崖には海蝕洞と呼ばれる洞窟ができることがある.

日本にもたくさんあるが、その中でも注目すべきは、宮崎県日南市の鵜戸神宮である.

鵜戸は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる言葉とされるが、本殿は海蝕洞の中にある.

そして、ここは、トヨタマヒメが産屋を作った場所と伝承されているのである.

まさしく、海坂なのである.

海蝕洞は、波の作用によるものなので多くは海面と同じ高さにできるが、陸地が隆起したり、沈降した場合、その位置が変わる.

鵜戸神宮は前者の例であるが、後者の場合、海中の洞窟になる.

「倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好」むのだから、そういうものを見つける機会はあったと思う.

また、干潮の時だけ現れるものもある.

これが、黄泉比良坂であるとするならば、「六月晦大祓祝詞」の言葉も理解できる.

また、スサノオがイザナギから任されたのは海洋であったことを考えると、母の国根堅州国と海とを洞窟を通じて往復していたともとれる.

2022.3/8

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#396

#387に書いたように、古代の日本人にとって、櫛は重要なものであった.

古代人がつけていた装飾品のほとんどは受け継がれず、首飾りや指輪等は明治になるまで復活しなかった.

そういう中でも、櫛だけは継承されてきているほどである.

また、彼らは角髪(みずら)と呼ばれる髪型をしていたが、そのためには、長い髪の毛が必要である.

海に入れば、その髪の毛は痛む.

体に付着した塩分も取り除きたい.

日本の場合、多湿なので余計である.

実際、日本人の清潔好きというのは、突出している.

「源氏物語」にも、数の多いたとえとして「伊予の湯桁」とあり、道後温泉に浸かったのかもしれない.

もっとも、今のように湯に浸かるようになったのは室町以降で、それ以前は蒸し風呂である.

大量の湯を沸かすのが難しかったからである.

このため、室の転じた風呂という小部屋に焼き石を置き、簀子を敷き、そこへ柄杓で水をかけて蒸気を発生させていた.

そして、そのままでは暑いので、布を敷き、単衣(ひとえ)を替えて水気を取っていた.

前者が風呂敷、後者は湯帷子という名称から浴衣に転じたというのは有名な話であるが、この方式ではあまり綺麗にはならない.

どうも、昔の人は、肌をこすると病気になるとでも思ったのか、肌を拭うわけではないからである.

また、湯を運ぶ手間が省けるが、それなりの準備は必要なので、頻度は多くない.

その代わり、湯殿という小さな湯槽にお湯を入れて体を洗っていたが、これとて、天皇用のでも深くて50pほど、浅いとその半分なので、全身浴は難しい.

基本はかかり湯だったようである.

しかし、馬糞はいうに及ばず、オマルの中身が路上に降り注ぎ、ドレスの裾を汚さぬためにハイヒールが生まれた中世ヨーロッパよりは清潔だったとは思う.

もっとも、ヨーロッパで香水が発達し、日本で香道が流行ったのは体臭を胡麻化すためなので、あまり、差異はないかもしれない.

ところで、日本にこういう風呂が生まれたのは仏教の影響である.

それまでの日本人は温浴をせず、水で体を洗っていたからである.

行水である.

そして、平安貴族もこれを行っていた.

その頻度は、週に2度ほどである.

庶民も川で体を洗っていたようである.

2022.3/9

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#397

もっとも、海から上がった古代の日本人が、真水で塩気を洗い流したというのは、単なる想像でしかない.

海に入ることも、古代の装飾品と同じように忘れ去られていたからである.

それが、初代衛生局長長与専斎の指摘により1882(明治15)年に三重県二見海岸に海水浴場が開かれるまで、海に入る人はほとんどいなかったからである.

このため、「倭の水人は沈没して魚蛤を捕」った後に、どうしたかという記録はない.

もちろん、漁師のような人は入っていただろうが、庶民の歴史は残りにくい.

海女の風俗を調べたら何か分かるかもしれないが、管見の限りでは見つからない.

したがって、現在の習慣から敷衍して考えてみただけである.

もっとも、川で泳いではいても、海でというとほとんど記憶になく、子供の頃のわずかな経験では、きちんとそのようなことをしていたかというと怪しい部分はある.

ただ、イザナミが禊をした場所は、「古事記」に「竺紫日向之橘小門(をど)之阿波岐原(あわぎはら)」、「日本書紀」に「筑紫日向小戸橘之檍原(あわぎはら)」とある.

この「あわぎはら」は宮崎県宮崎市阿波岐原町といわれるが、シーガイアというリゾート地のすぐ西側に江田神社があり、森の反対側にみそぎ池がある.

海から1q近く入ったところであるが、開墾される前は入江だったとあるので、「をど」を小さな水門(港)と解釈すれば合致する.

ところで、もし、黄泉比良坂が海中にあったのなら、出たところは海岸である.

海蝕洞という想定が正しければである.

したがって、禊をするのには波が荒すぎる場合もあろうとは思うが、1qも内陸に入っていくのは、淡水だからと考えるしかない.

でなければ、海岸沿いに小さな砂浜ぐらいあるだろうと思うからである.

実際、熊野詣の人達は海水で禊をする潮垢離(しおごり)というものを行っていたが、熊野灘の岩場ではなく、砂浜を選んで行っているようである.

では、なぜ、淡水なのかとと考えると、塩気を洗い流したかったからとなるのである.

2022.3/10

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#398

上流は速すぎる、下流は弱いとイザナギが言っているので、流れに身を任せたのであろう.

平安貴族が身を拭わなかったのと同じで、浸かっただけであろうが、そういう流れがあるということは、池や入江よりも川のほうがふさわしい.

ところが、江田神社のみそぎ池は湧水によるもので、川ではない.

もし、かつては地形が違っていて、川が入江に注いでいたとしても、それほど大きなものではないと思われる.

平坦な場所なので、あっても溝ぐらいかもしれない.

そのような所で、上流、中流、下流で勢いが違うなどということがあるだろうか.

また、水底、中ほど、水面で体を洗うと、住吉の3神が生まれたとあるが、ある程度の水深がないと、そのような表現はできない.

そう思って見渡すと、江田神社の南数kmのところに小戸(おど)神社がある.

この小戸神社は、宮崎市内を貫通する大淀川の河口部の直前、流路を直角に曲げて、東に向きを変える付近の中州にあった.

しかし、1662(寛文2)年の西海大地震により社殿を失い、その後、移転を重ねている.

現在の境内は1932年に移転したものであるが、旧社地に近いものの、川の中ではない.

そして、この小戸神社も、江田神社と同じく、イザナギの禊(みそぎ)の地であると喧伝しているが、「あわぎはら」という地名以外には、こちらに分がありそうである.

大淀川が、九州第4位の長さを持ち、流域面積は同2位と県を代表する川だからである.

もちろん、この神社の祭神は、イザナギであるが、江田神社のようにイザナミを合祀していない.

そして、神社のHPには「大淀川河口の沖合小戸の瀬は小戸神社御鎮座の清浄地」とある.

この小戸の瀬は、阿波岐原の沖にあるとされるが、現在、確認できるところでは河口の南、青島東方沖の浅瀬である.

もっとも、青島から北上したのなら、大淀川の前に、別の川が2本あるので、そちらで沐浴しなかったのはなぜかとなる.

阿波岐原町から南下した場合、大淀川まで川はない.

もし、黄泉比良坂が海にあり、そこから上陸してから、禊のできる場所を探して海岸を歩いたとしたら、河口を探したはずである.

入江は海水だからである.

また、海岸部が開墾されていない場合、見通しがきかないと思うが、そのような中、闇雲に内陸部に入っていっても、僥倖に頼るしかない.

しかし、海岸部を歩いて行けば、いつかは川に当たると思うからである.

2022.3/12

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#399

国土地理院古地図コレクション伊能忠敬の描いた地図を見ていると、大淀川は赤江川となっている.

赤江川は、下流域の名称で、戦前の1/5万地形図でも、河口部に赤江港と記されている.

伊能図では海岸のごく近くしか流域を載せていないので、表記はされていないが、往時は、中流域は大川、上流域は竹之下川と名称が異なっていた.

このため、江戸時代中期から使われていた大淀川という名称を、明治期に統一名称として採用したのであるが、流路も現在と随分と異なる.

河口は海岸沿いに砂州を形成しながら北上しており、北端の一ッ葉入江付近で日向灘に注いでいたことになっている.

ところで、前回、小戸神社は旧社地に近い所に移転したとあったので、あのように記したが、

本来、社殿があったのは、現在の宮崎市小戸町であると書かれたものを見つけた.

これが正しいとすれば、伊能図で川幅が最大になる屈曲部あたりである.

ただ、小戸町自体は戦後の命名なので正確なところは分からないものの、戦前の地図には蟹町(がにまち)とあるあたりであろう.

蟹股(がにまた)などもそうだが、蟹の脚のように曲がっているの意味だからである.

そして、現在の小戸町の西方に隣接する所に蟹町甲という吉村町の飛地がある.

このため、概ねあっているのではないかと思うが、昔の地形図や航空写真を見ると、砂州の南端部に細い流路ができて、川はまっすぐ海に注いでいる.

北側の河口は塞がれ、砂州は細長い入江と化している.

現在、港東と呼ばれる宮崎港東側の島は、その砂州を拡張したものである.

そして、問題の屈曲部は、川幅が狭まっている.

写真では、砂が堆積しているように見えるので、自然に堆積したものであろうが、現在の海岸線を見ると、そこを埋め立てたようである.

小戸町の境を流れる水路が、かつての海岸線だったのかもしれない.

したがって、小戸神社は外洋に接するような場所にあったということになる.

青島からも見えるロケーションである.

#398で書いた想定地だと、なぜ、そこまで上流へ行く必要があったのかと思っていたが、

もし、往古も、海岸沿いに延びた砂州の北端部が河口であったなら、砂州を超えた途端に、上流も下流も見渡せる.

イザナギは、川の流れてくる彼方を見、川下の河口部を見て、目の前の中流域がよいであろうとなったということになる.

もちろん、記紀の時代には、今とは大幅に地形が異なっていたであろう.

したがって、これはできるだけ古い時代の地図等を参照した上での推測である.

ただし、伊能図には、江田神社付近の海岸線に入江が描かれていない.

また、青島から北上してきた場合、最初に遭遇する加江田川は入江のように書かれている.

現在は北側が埋め立てられて県の運動公園になっているので、低湿地であったのかもしれない.

禊の始まりが塩気を取るためだったとしたら、あまり入りたくない環境だったのかもしれない.

2022.3/13

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#400

三重県多気郡明和町から伊勢市にかけても大淀という地名がある.

大淀は、「おおよど」とも読むが、「おいず」と呼ぶ人も多い.

この地名は、「伊勢物語」に「おほよどの松、おほよどのわたり、おほよどのはま」と、斎宮と在原業平の別離の場面に出てくるので、本来は「おおよど」である.

この「おほよど」が、江戸時代に「おいづ」に転じたようで、「伊勢参宮名所図会」に「大淀浜、俗に負戸」とある.

同様に、宮崎県大淀は、小戸が変化したという説がある.

ただ、「おほよど」は江戸時代に登場しているので、「をど」のほうがはるかに古い.

したがって、「をど」が変化して、「おほよど」になったということになる.

大は小を兼ねるというが、その逆はどうだろうかと危惧の声が挙がりそうな話である.

ただ、古代においては、をみな(女)、をとこ(男)、をとめ(乙女)、をとひと(弟)に対して、おうな(媼)、おきな(翁)というように、

「を」は小さい、「お」は大きいという意味があった.

もっとも、記紀の時代においても、この使い分けは古い用法であったようで、「万葉集」は、小雨、古鈴というように、小さいという意味で「こ」を使っている.

「万葉集」には、他にも「佐由利(さゆり)」と出ており、現代では小百合と書くものの、この「さ」は、小さいという意味ではなく、

狭霧、小夜(さよ)等と同じく、語調を整えるための接頭辞である.

また、現代の小さいの原型である小さきは、平安時代になってから登場している.

これに対し、「お」のほうは「おほ」、さらに「おお」と変化していったが、小さいという意味で「を」を使うことは少なかった.

そのため、平安時代には、「を」と「お」の発音は差異がなくなってヲWoに統合され、江戸時代にオOに変化した.

したがって、本来は小坂(をさか)だったのが大坂(おほさか)となるように、漢字や発音だけでは、大小どちらがもとだったのか不分明なものが多い.

たとえば、小川とか小野という苗字も、もとは大川、大野だった可能性があり、その逆もありえる.

このため、小戸が大戸になっても不思議はないし、大戸が「おほいど」と読まれるようになれば、「おほよど」となるのも頷けるであろう.

であるとならば、小戸は大淀川河口の港であったということになる.

つまり、「日本書紀」の「小戸橘之檍原」、「古事記」の「橘小門之阿波岐原」の小戸(小門)は、

普通名詞ではなく、固有名詞であり、この付近一帯の地名であったとも考えられる.

逆に、「日本書紀」で「小戸橘」、「古事記」で「橘小門」と語順が変わっているは、普通名詞かもしれない.

というのは、は、立鼻で「岬や洲の突出した地形」を意味すると、「日本地名語源事典」にあるからである.

もし、古代においても大淀川河口に砂州が発達していたのなら、そう呼ばれても不思議はない.

ただし、記紀で語順が違うので、どちらが固有名詞で、どちらが普通名詞であると断定するのは難しいし、両方とも普通名詞という可能性もありえる.

2022.3/14

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#401

阿波岐原町という名は檍(あおき)村に由来する.

この村は、1889(明治22)年、町村制の施行により、北那珂郡山崎、江田、新別府(しんびゅう)、吉村の4村合併により発足したものである.

もちろん、「日本書紀」の檍原から採った名である.

これは、阿波岐原町の原を「はら」と呼むことからも分かる.

宮崎県ではというより、九州沖縄では、原は、航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地のように、「ばる、はる」と読むほうがはるかに多いからである.

つまり、明治以降に記紀の知識を持つ者が、阿波岐原はこの辺りだろうと考えて命名したにすぎない.

したがって、同地を「日本書紀」の檍原とする理由はない.

また、「あわぎはら」を「あわき」の原ととると、「あわき」は、、モチノキ、アオキ等の説はあるが、常緑樹の類であるから、他にあっても不思議はないということになる.

それどころか、大淀川の中洲をそのように呼んだ可能性もある.

平らな土地で、耕作可能地を原、不能地をと呼ぶが、古代の稲作においては水源が問題だったので、このような川の中でのほうが適地とされたからである.

以上、海水に浸かって気持ちが悪かったから、淡水に浸かってさっぱりしてみたかったという視点で、イザナギの禊を考えてみた.

もっと神々しいものを考えていた人には、冒涜ととられるかもしれないが、神ではなく、昔の人の行動として考えてみたかったからである.

というのは、仏教や、儒教、道教等の外来の文化にさらされる前の日本人の考え方や信仰の在り方を知りたいからである.

神道も、仏教や儒教の影響を受けているので、そのままでは、これを知るためには役立たない.

そのため、そういう影響を最も受けていないものとして「魏志倭人伝」を選んだ.

中国とは違うという部分を明確に出してくるからである.

したがって、記紀ですら、史料批判の必要が出てくる.

たとえば、黄泉比良坂を、今は「出雲国之伊賦夜(いふや)坂」という「古事記」の記述は無視している.

この記述は、黄泉比良坂が海中にあったという伝承が失われ、坂という言葉に引っ張られたからではないかと思うからである.

また、黄泉比良坂が海中にあったとしても、濡れたとは限らない.

しかしながら、イザナギを神として見ずに、一般の人の行動として見た時、一番ありそうな理由がこれだったのである.

では、なぜ、イザナギは禊をしたのか.

同様の視点から見てみたい.

また、古代の日本人にとっての穢れがどのようなものであったかというのも考えてみたい.

病気も、殺人も、死すらも穢れではないとすれば、古代の日本人にとって何が穢れだったのだろうかと思うからである.

2022.3/15


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