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#402
イザナギがイザナミの死後の姿を見て、汚穢(きたなき)と思うのは、どうなのだろうかと思う.
#377に書いたように、「魏志倭人伝」には「始め死するや停喪十余日」とあるが、10日以上も死体を放置しておいたらどうなるか.
もちろん、ドライ・アイスなどない.
いや、すでに埋葬されており、これは葬儀の期間だという考えもあるだろう.
しかし、#382に示したように「已(すで)に葬れば、挙家(きょか)水中に詣(いた)りて澡浴し」とある.
葬った後に一家で水に浸かって澡浴するとなっているので、10日以上、遺体は放置されていると考えるべきである.
「魏志倭人伝」だけではない.
「日本書紀」にも「乃到殯斂(あらき)之処(すなわち、殯斂のところに到り)」とある.
他ならぬ、イザナミの死の場面である.
殯斂は、漢語では「ひんれん」と読むが、埋葬まで遺体を安置しておくことである.
これを、日本語では殯(もがり)というが、天皇のそれになると、1年以上の期間に達することも珍しくない.
孝昭天皇などは38年間という長期となっているが、存在したかどうかも分からない天皇なので、事実かどうかも分からない.
ただ、神武から文武までの天皇の殯の平均は1年8ヶ月だそうである.
また、1979年に奈良市の茶畑から発見された「古事記」を記録した太安万侶の墓碑には「癸亥年七月六日卒之
養老七年十二月十五日乙巳」とある.
723(養老7)年7月6日に死去したと同年12月15日に記載されているわけだが、墓碑は墓の中から見つかっているので、12月15日は埋葬の日か、その近辺である.
その間、5ヶ月.
これも殯であろう.
これだけの長期になると、肉も腐り落ちて白骨化する.
だいたい、夏場、地上に死体を置いておくと10日ほどで、冬場だと数ヶ月で白骨化するそうである.
「魏志倭人伝」には「其死有棺無槨封土作冢(其の死に棺あれども、槨(かく)なし.土を封じて冢(ちょう)を作る)」とある.
人が死ぬと棺に入れるが、槨と呼ばれる外枠は使わず、土の中に塚を作って葬るというのである.
棺に納めるということは、直接、土に触れないし、スカベンジャーと呼ばれる腐肉食動物の助けも得られないので、
腐乱の進行は遅いと思われるが、こうして骨だけにして埋葬するのである.
現在の日本の葬儀で行われる通夜は、その名残であるといわれるが、大化の改新の際に出された薄葬令により、殯の習慣は減り、火葬の普及によって消え失せたとされる.
ただ、天皇家はこの風習を復活させており、昭和天皇の際にも行われた.
ただし、その際の負担が大きかったとして、次代からは火葬となるようである.
一方、離島では今でも残っているかもしれないが、戦前の沖縄で行われていた洗骨がこれに近い.
風葬、もしくは、土葬の後、遺骨を酒や海水で洗って埋葬しなおすというものである.
韓国南西部の珍島(チンド)にも同様のものがある.
ところで、沖縄の洗骨は、長男の嫁がするものとされたが、死んだ人の骨を洗うというのは、衛生の問題もあるが、あまりやりたいことではない.
にもかかわらず、そのようなことをするのは、洗骨される前は穢れているので、神仏の前に出られないという信仰があるからである.
これが人間だからか、腐乱した姿だからかは分からない.
2022.3/17
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#403
洗骨のように、遺骨にしてから、もう一度埋葬する方式を再葬と呼ぶが、これは、縄文時代中期から弥生時代にかけて東日本で発達したとされる.
なぜ、そのようなことをするのかについては定説はないが、死者に対する敬意を示すためというのと、死者を恐れたからだという説とがある.
縄文時代前期から中期の三内丸山遺跡では、死者は、村の出入口の道の両側に足を向けあった状態で埋葬されている.
したがって、村を出入りするときは、必ず、死者の間を通ることになる.
何らかの呪術であったと思われるが、翡翠の首飾りや、まとまった量の鏃が一緒に出てきた墓もあるので、死者は畏敬の念をもって遇されたのであろう.
死者は、この時代においては、親しい存在であったわけである.
ところが、墓地は段々と村はずれに置かれるようになり、弥生時代にはこれが主流になる.
畏敬のためではなく、死者を恐れたからであるという.
「令集解」という本がある.
「りょうのしゅうげ」と読むが、惟宗(これむね)直本という平安時代前期の学者が「養老律令」の注釈書として書いたものである.
その中の古記、つまり、現存していない「大宝律令」の注釈書を引用した部分に「遊部隔幽顕境鎮凶癘魂之氏也(遊部は幽顕の境を隔て、凶癘の魂を鎮むる氏なり)」とある.
遊部(あそびべ)は、大王の殯(もがり)の際の儀礼を行っていた集団であるが、彼らは凶癘(きょうれい)の魂を鎮める氏だったというのである.
凶癘とは酷い流行り病である.
幽顕の境とは、死と生の境である.
したがって、遊部は、持衰のように、それを超えて魂鎮めを行ったのである.
また、同書の「喪葬令」には、長谷天皇(雄略)が死んだ際、遊部の比自支和気(ひじきわけ)氏が断絶していたため、
「七日七夜不奉御食依此阿良備多麻比岐(七日七夜御食(みけ)奉らず.
これによって、阿良備多麻比岐(あらびたまひき))」とある.
7日7夜、食事を霊に出せなかったので、「阿良備多麻比岐」したというのである.
どのように荒びたのかは、沈黙しているので何も分からないが、凶事が起きたのであろう.
つまり、遊部がいない、あるいは、きちんとしていない場合の死霊は、凶癘魂、いわゆる、荒魂(あらたま)であり、危険な存在であった.
これを、凶癘でない魂、和魂(にぎたま)にするのが魂鎮めであり、遊部は2人1組の禰義(ねぎ)と余比(よひ)に分かれて、死者に奉仕した.
その際、刀と矛を持つのが禰義、刀と酒食を持つのが余比であると書かれているので、武器と食事をもって奉仕したのである.
そして、この武器は、その凶癘魂を守護するためではなく、懐柔するためのものであったのであろう.
つまり、武器で脅しつつ、食事を与えてなだめることにより、おとなしくさせたわけである.
野獣を順化させるような行為を、いやしくも天皇の霊に対して行うかという疑問はあるであろうが、天皇の霊だけに恐ろしいという考えも成り立つ.
2022.3/20
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#404
もがり笛というのは、風が狭い所を通り抜ける際に、甲高い笛のような音が出ることである.
柵のように、間隔の狭まった部分があると、そこに急速に空気が流入した際に気圧が変化し、空気が振動して音になるからである.
漢字では、虎落笛と書くが、虎落とは、竹矢来(たけやらい)、竹を粗く組んだ柵のことである.
江戸後期の辞書「和訓栞」に「竹を並べ行馬のごとく毎節に枝を存し」とある.
行馬(こうば)とは馬をつなぐ杭であるが、そこから、鉄の釘を打ち付けた杭の意味になった.
相手の騎兵の突入を防ぐためのものであるから、たくさんの釘が出ていたのであろう.
したがって、竹矢来といっても、竹の節ごとに出ている枝を完全には払わず、尖ったまま切ってある.
真竹のような日本産の竹は、節ごとに2本の枝が出ているが、双方とも尖らしてあるので、乗り越えようとすると脚を踏み抜いてしまう.
枝を尖らせたを木を相手のほうに向けて倒す逆茂木(さかもぎ)のようなものである.
そして、虎落と書くのは、虎の落とし穴に使われたからであろう.
穴に落ちた虎は、竹の枝が逆さに切ってあるため、這い上がれなくなるのである.
ところで、#402に書いたように、殯は、人が死んで、埋葬するまで遺骸を祭ることである.
そして、虎落と殯は、双方とも「もがり」と読む.
このことから考えると、何らかの共通点があったはずであるが、それは恐ろしいものを外に出さないということである.
虎も恐ろしいが、凶癘魂、つまり、死霊も恐ろしいのである.
そのようなものを野放しにするわけにはいかない.
また、青森県では、忌中札を下げる代わりに、青竹や木の棒を十字に組み、門のところに×の形に置く習慣が残っている地域があるそうだが、これを「もがり」と呼ぶ.
これも、死者の霊魂が外へ出て行って悪さをしないようにするためであろう.
さらには、一代一都制はこのためではないかという人もいる.
つまり、新しく即位した天皇は、新都に遷るが、これは、先帝の凶癘魂を恐れたからであるというのである.
ただし、都を継続使用するようになった藤原京時代の天皇、持統、文武、元明の3人も先帝の殯を行っている.
2022.3/21
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#405
特に、686年、持統の祭った夫天武のそれは、
「丙午天皇病遂不差崩于正宮.戊申始発哭則起殯宮於南庭.辛酉殯于南庭即発哀
(丙午、天皇の病、遂に差(たが)えず、正宮に崩ず.戊申、始めて発哭たてまつる.則ち、殯宮を南庭に起つ.辛酉、南庭に殯し、即ち発哀たてまつる)」と、
正宮で死亡し、南庭に殯宮を建てて殯したと「日本書紀」に詳しく記録されている.
南庭は本殿の前庭である.
そして、干支を日付に直すと、9月9日、天武死去、11日殯宮を建て、24日に殯を始めるということになる.
したがって、「魏志倭人伝」の「始め死するや停喪十余日」に合致するが、殯宮は、このような短期間で建てられるような仮設のものであったということになる.
その後も天武の殯の記事は載っており、死後2年3ヶ月で葬られるまで続く.
つまり、#403に述べた理由が正しいとすると、天武の凶癘魂を順化させるのにそれだけの期間が必要だったということになる.
そして、天武の死から4年間の空位を経て690年に持統が即位している.
ここから考えると、天武の凶癘魂を恐れたというわけではないようである.
もし、そうであるのならば、殯の最中にでも遷都するはずであるからである.
しかし、そうとはならなかった上に、即位した年になって、ようやく、飛鳥浄御原(きよみはら)宮から藤原京に遷っている.
しかも、藤原京の建設は天武の時代から始まっていたといわれており、持統はその完成を待っていただけと考えられるのである.
したがって、一代一都制が先帝の凶癘魂を恐れたからというのは成立しないように思われる.
もっとも、遣唐使等を通じて中国の文物が入ってくることにより、考えが変わった可能性はあるであろう.
というのは、儒教は孝、すなわち、先祖崇拝の宗教であるからである.
ひたすらに先祖を崇敬し祭り上げることにより、祖霊は子孫に幸福をもたらすという考えである.
凶癘魂などとんでもないのである.
そして、隋の文帝は科挙を始め、儒者の登用を行った人であり、唐は仏教の隆盛が激しかったが、儒教、仏教、道教が鼎立していた時代であった.
また、天智は665、669年と2度、唐本土には行けなかったとされる667年のそれを含めると3度、遣唐使を派遣しており、
それ以前の653年に20数年間ぶりに復活して以来、653、654、659年と立て続けに送られている.
もちろん、これは百済、新羅との関係の緊迫が原因であり、その後、702年まで間はあくものの、集中的に中国の文物が入ってきた時代なのである.
2022.3/24
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#406
一方、文武に譲位した持統は死後1年で埋葬され、文武は5ヶ月で埋葬されているが、平城京に遷都した元明のそれは、わずか6日である.
突然、このような短期間になったのは、彼女が徹底した薄葬を希望したからである.
そして、そのようなことが可能だったのは、皇位を娘の元正に譲っていたからである.
と同時に、火葬だったからである.
もっとも、火葬となった最初の天皇は、元明ではなく、持統である.
ただ、持統の場合、殯をした後に火葬されている.
文武も同様である.
ところが、元明の場合は、死後、「十余日」も経たないうちに火葬となっている.
このため、殯はおろか、葬儀すら省略されている部分があるようである.
#405に述べたような儒教の影響もあって、凶癘魂という考えがなくなっていたからかもしれない.
また、殯を行うということは、遺骸を腐らせ、骨だけにしてから埋葬するということである.
つまり、土葬とはいえ、骨だけにしてから葬るのだから、実質的には風葬である.
棺に納めている点が違うだけである.
火葬においても、淳和天皇は散骨を希望し、そのようになったが、それは例外であり、基本は骨を埋めている.
骨を灰にするまで焼くのは大変だからである.
また、現在でも、納骨という儀式があるが、納体という語は馴染みがない
(新型コロナ感染症(COVID19)対策として、遺体の全身を覆う納体袋が開発されているそうであるが).
つまり、大事なのは骨であって、肉体ではないのである.
そして、その骨はすべてを埋葬するのが普通であったようである.
というのは、東日本と西日本で骨壺の大きさが違うからである.
東日本の場合は総骨といって、すべての骨を回収するため、直径が6-7寸(18-21cm)の大型の壺、もしくは桐箱を使う.
これに対し、西日本では5寸(15p)以下であり、分骨用であろうが2寸(6p)という小さなものの場合もある.
部分収骨、つまり、一部の骨だけを集め、残りは火葬場に置いていく方式だからである.
そして、関西では、その骨を骨壺から出して納骨する.
袋に入れて埋葬する場合もある.
土に還す感覚である.
また、徳島以外の四国と九州、それに、沖縄では総骨であり、壺も東日本と同じ6-7寸である.
総骨か、部分収骨かというのは、その分布から考えると、近畿圏で発生し、東西両端に広がっていった風習なのであろう.
つまり、総骨が本来のものだったわけであるが、であるとすれば、骨に何らかの意味があったということになる.
2022.3/25
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#407
元明の次の元正も、死後7日で火葬になっている.
そして、聖武で土葬に戻るが、死後、葬られるまでの期間は17日間とやはり短い.
その後、室町時代に火葬になるまで土葬が多いが、死んでから埋葬されるまでの期間は、称徳13日間、光仁14日間、桓武20日間となっており、
明確な記載はないものの、殯はされなかった模様である.
つまり、肉体を腐らせて骨だけにするという手順が省略されているわけである.
そうなった経緯を考えると、凶癘魂は肉体に宿ると考えられていたのではないかと思う.
つまり、肉体が消え、骨だけになれば、凶癘魂もなくなり、恐ろしいものではなくなるというわけである.
したがって、骨だけにすることが重要であり、殯ではなく、火葬で同じことができるのなら、それでいいとなったのではないだろうか.
推古、文武の時代には、殯の後に火葬になったが、骨にわずかに付着した肉片も焼き尽くして浄化しようとしたという考えることができる.
つまり、#402で述べた沖縄の洗骨と同じ理屈である.
多少とでも肉片が残っている間は、暴れる可能性があり、神の前に出るのにふさわしくないという考えである.
しかし、であるならば、凶癘魂も魂であるので、その魂のなくなった骨に何の意味があるのであろうか.
#386や403で述べた和魂(にぎみたま)や荒魂(あらみたま)を通して考えてみたい.
「日本書紀」には、この2種類の他に幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)というものも出てくるが、これらは、本居宣長は和魂の働きを表すものではないかと述べている.
したがって、和魂、荒魂の2種で考えてみようと思うが、中国に魂魄という考えがある.
精神を司る魂と、肉体を司る魄との合体が解けた時、人は死ぬという考えである.
魂という漢字の云は雲の原型、魄の白は頭蓋骨で、鬼は死人の霊を意味するように、合体が解けると、魂は空中に漂い、魄は土の中に沈んでいく.
やがて、漂泊していた魂が、別の魄に出遭うと、新しい生命が生まれるというものである.
そして、古代にこの考えが日本に入ってきた時、これが和魂と荒魂になったのではないかと思う.
人、神でもよいが、魂があるというのは、死ぬと、なぜ動かなくなるのかと考えれば、その理由として自然と出てくるものかもしれない.
しかし、その魂に2種類あるというのは、簡単に思いつくことではない.
それが、海によって隔てられてはいるものの、隣り合った2国双方で自然発生すると考えるよりも、どちらかの影響を受けたとすべきである.
2022.3/28
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#408
倭は、卑弥呼の時代になって初めて中国と接触したのではない.
「論衡」に「周時天下太平<中略>倭人貢鬯草(周の時、天下太平(中略)倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す)」、
「成王時<中略>倭人貢鬯(成王の時、(中略)倭人は鬯草を貢ず)」とあるからである.
この倭人は、邪馬台国等の倭人とは異なるという意見もあるが、同じだとすれば、成王は紀元前10世紀頃の人なので3000年前の話である.
ただし、「論衡」は前漢の書であり、1世紀のものである.
そして、その次の倭の記載は、「後漢書東夷伝」にある、
有名な「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使<中略>光武賜以印綬(建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す(中略)光武賜うに印綬を以てす)」である.
倭が朝貢してきたので、光武帝は印を授けたというわけであるが、これが、志賀島から出土した漢委奴国王印であるとされる.
そして、建武中元二年は紀元57年であるので約2000年前である.
少なくとも、邪馬台国以前から、倭は中国と接触していたのである.
そして、「旧唐書(くとうじょ)、日本伝」に713年の遣唐使の記録があり、
「所得錫賚盡市文籍泛海而還(得る所の錫賚(せきらい)、盡く文籍を市(か)ひ、海に泛(うか)びて還る)」とある.
朝貢によって得たものすべてを売り払って書籍を購入し、海路帰っていったというのであるから、知識欲が強かったのであろう.
したがって、記紀に登場するからといって、日本独自とは限らないということになる.
実際、記紀には、中国の各種書物を参照した形跡が色濃く出ており、かなり読み込んだ人が書いたのだろうといわれる.
それでは、なぜ、卑弥呼や、邪馬台国が記紀に登場してこないのかと疑問にもたれる方もおられると思う.
その点については、大和朝廷は、邪馬台国の後継ではなかったからであるという仮説は持っており、わざと書かなかったのではないかと思っている.
それはともかくとして、倭人は和魂と荒魂という2つの魂の存在を信じていた.
その原型が魂魄であったとしたのならば、荒魂のほうが魂であろう.
#386に書いた住吉神の荒魂は、分離して先行したとあるからである.
であるならば、和魂は魄である.
もっとも、魄の白は頭蓋骨でというのは白川静による最近の学説であるので、古代人はそのような認識は持っていなかったであろう.
ただ、腐らせても、焼いても残る骨というのは、印象に残りやすく、和魂の象徴として充分であったはずである.
2022.4/1
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#409
殯宮という言葉が示すように、古代の日本人は、別の建物に遺骸を納めて殯を行った.
凶癘魂が恐ろしいということもあったであろうが、遺骸の姿や臭気に耐えられなかったからであろう.
嗅覚は、ある程度後天的な部分があって、親がいい匂いであるとすることによって、子も同様に思うようになるそうである.
したがって、薔薇の花を嗅いで、よい香りと思うか、きつすぎて耐え難いと思うかは、その人の生育環境次第である.
汚穢をよい匂いと思う人もいる.
実際、香水の中には動物の排出物を使用しているものがある.
ただ、本来、嗅覚は危険を察知するためのものである.
哺乳類の祖先は小さく、大型捕食獣の危険から逃れるため、夜行性で、森林の中に住んでいたと推定されている.
視界の広い空中を飛行できる鳥や昆虫は視覚を発達させたが、視界が広くない森林、その中を夜間に移動する哺乳類にとって重要なのは聴覚と嗅覚であった.
したがって、動体視力は鋭敏であるが、ほとんどの哺乳類の視力は弱い.
色覚も発達していないが、聴覚と嗅覚は優れているものが多い.
ヒトの場合は、この点が逆転しているが、嗅覚はその食べ物が食べられるかどうかという重要な要素を確認するためのものである.
であるため、死臭に対する耐性は低い.
したがって、殯を別の場所で行うのは当たり前のことである.
始皇帝の死を隠すために大量の魚を積んだ車が伴走したとあるが、死臭はかなり漂うからである.
その上、死者の霊が悪さをするとなると、一緒にいること自体が耐え難くなる.
#404に書いたように、青森県に伝わる棒で×字形に組み、門を閉ざした「もがり」は死者の霊魂が外へ出て行かないようにするためのものであるが、
人が立ち入らぬようにするためでもある.
つまり、入ってはいけないという禁忌である.
しかし、その禁忌を破った者がいた.
イザナギである.
2022.4/9
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#410
「古事記」は「於是欲相見其妹伊邪那美命追往黄泉国(是に其の妹伊邪那美命を相見く欲して黄泉国に追ひ往でましき)」、
(イザナギは)その妹、つまり、愛しい人であるイザナミの姿を見たいと思って黄泉の国へ行ったとある.
一方、「日本書紀」のほうは、#402に書いたように、「欲見其妹(其妹を見まんと欲し)」て殯斂(あらき)の場へ行ったとある.
凶癘魂というものがどこまで遡れるものかは知らないが、殯を行うのは、死体が危険なものであると考えられていたからである.
人が死ぬと、10日以上葬儀を行い、持衰がその魂が戻ってこないことを確認した後は死者の領分であり、下手に触れると危険と考えられていた.
当然、それを見に行くというのは禁忌である.
しかも、「日本書紀」には書いてはないが、イザナミと会って話したということは、棺を開けて見たということである.
その上、人目を忍んで夜中に出かけたのであろうが、見るなと言われていたのに明かりをともして死に顔を見たのである.
つまり、イザナギはしてはいけないことを行い、その結果として、危険な目に遭ったのである.
そして、逃げ戻ったイザナギは、禊(みそぎ)をする.
穢れを祓う禊の始まりであると説明されることが多いが、禁忌を冒したとイザナギが思っていたかどうかは怪しい.
禊の理由として、「吾到於不須也凶目汚穢之国矣(吾、不須也凶目汚穢国に到ること不意(おもはざり)き」とイザナギが言っているからである.
「不須也凶目汚穢」は、「いなしこめき、きたなき」と読む.
これは、古訓などではない.
「日本書紀」本文に「不須也凶目汚穢」は「伊儺之居梅枳枳多儺枳(いなしこめき、きたなき)」と読めと注釈してあるからである.
この「いなしこめき」は「いな+しこめき」である.
「いな」は「とても」、「しこめき」は「醜い」である.
「きたなき」は、現在の「きたない」と同じである.
したがって、非常に醜く、汚れているの意味である.
つまり、「私は、このように、とても醜く、汚い国へ行ってしまうなどとは思っていなかった」とイザナギは言っているのである.
しかし、その言葉を見る限り、「穢れ」という要素は薄い.
2022.4/19
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#411
醜いとか、汚いというのは見た目の問題である.
ところが、穢(けが)れというのは心の問題であり、感じるものである.
ここで、汚く、穢れた世界に行ってしまったとイザナギが言っているのなら、穢れを祓うためであるでよいのだが、実際には、醜く、汚れたとあっても、穢れたという言葉はない.
もっとも、「きたなき」は「汚穢」という漢字が使われ、穢を含んでいる.
しかし、この穢という文字を穢れと取れるかというと疑問がある.
中国に穢れという概念があるだろうかと思うからである.
もちろん、呪という文字が示すように、他人の力に影響されるというものはある.
また、何かを食べてはいけないという禁忌もある.
ただ、何かに触れた、あるいは、見たということにより自動的に穢れるというのは、中国にはないように思う.
実際、穢れを中国語訳しても不潔というような訳になってしまう.
また、穢という漢字も、禾偏であることから分かるように、雑草が生い茂っているというのが原義で、汚れているという意味になったものである.
「古事記」のイザナギの帰還の場面では「吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理(吾はいなしこめしこめき穢き国に到りて在りけり)」と書いてある.
「いなしこめしこめき」は「いなしこめき」の強調系であると考えられているので、「とても醜い」である.
そして、「穢」は「きたなき」と読むのが普通であるが、こちらは本文に読み方が指定されていない.
「日本書紀」の「枳多儺枳(きたなき)」を援用したものであろう.
このためか、「きたなき」は心の汚れだったのが、物の汚れに意味が広がったと考える人がいる.
しかし、「きたなし」の語源は、「かたなし」であるとされるが、この語は「日本書紀」の景行天皇の求婚譚に「形姿穢陋(形姿(かほ)穢陋(かたな)し)」として出てくる.
容姿がよろしくないである.
そして、この「かたなし」の語源を考えると、やはり、形であろうと考えられる.
そうすると、心の汚れという意味が先行するとは思えない.
2022.5/11
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