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(1)
トリヴィアtriviaとは「無駄な知識」を意味する英語で、日本では2000年代に「トリビアの泉」というTV番組を通じて広まった.
もっとも、私はその番組を観たことがないのだが、この番組名はトリヴィアとトレヴィTreviの泉をかけたものだそうだ.
そして、このトレヴィとトリヴィアは、ラテン語で三叉路を意味するとある.
なぜ、三叉路かというと、Wikipediaのトリヴィアの項に、古代ローマの都市において三叉路が多かったことから、
「どこにでもある場所」、「ありふれた場所」を指すようになり、さらに転じて、くだらないこと、瑣末なことを意味するようになったというとある.
泉のほうは単純に三叉路にあったからだそうである.
では、なぜ、「古代ローマの都市において三叉路が多かった」のかとなるのだが、その点を述べたものを見つけることができなかった.
また、それほどまでに三叉路が多かったのだったら、そのような名前をつけるのだろうかという疑問も生じる.
ローマへ行ったことのない人でも知っているような名勝であるのなら、もっとよい名前があるだろうと思うのである.
その点について考えてみたい.
2020.10/25
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(2)
「すべての道はローマに続く」というのは有名な言葉である.
だから、好きなように行けばいいと書いた人を知っているが、古代ローマにこの言葉はなかった.
フランスのラ・フォンテーヌが書いた「寓話Fables」という本に出てくるからだ.
書かれたのは1668年から94年、ローマ帝国より、現代のほうがはるかに近い.
その最後に収められた「裁判官と修道士と隠者」という物語にこの言葉が登場するが、
「すべての道はローマに続く」は"Tous chemins
vont a Rome"と書かれている.
今のフランス語だと"Tous les chemins
menent a Rome"であり、英語だと"All roads lead to Rome"である.
うち、chemin(s)、road(s)が道であるが、これらの語は、やはり道を意味するrueやstreetとは明確に分けて使用する.
rueやstreetは街中の通りである.
これに対し、chemin、roadは町と町を繋ぐ道である.
つまり、街道である.
もっとも、現代フランス語では、routeがその意味で使われていて、cheminは田舎道の意味になっている.
獣道も含むようだが、街中の通りではないので、本来は街道だったのだろう.
つまり、「すべての道」は、ローマへ続く街道である.
もっとも、ローマにおいては、そうではない.
ローマから出て行く街道である.
2020.10/28
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(3)
ローマの街道は、車道部分が幅4m、これに幅3mの歩道が両側につくのが標準であるので、幅は10mある.
車道部分は深さ2mまで掘り下げられ、そこに3層構造の路盤と敷石が置かれているが、この敷石は大きな石を亀甲型に組み合わせたものである.
日本の歩道のように薄い石板を貼ったようなものではない.
したがって、古いものでは2000年以上前の道が、部分的にではあるが、自動車道として使用されている.
そのようなものを、なぜ建設したかというと、何かことが起きた際に、すみやかに軍勢を送り込むためである.
同じ頃、秦の始皇帝も長大な道路を建設した.
ローマの街道の7倍、幅70mものが半数を占めるが、これも軍勢を送り込むためである.
そして、古代日本でも直線道路を建設した痕跡が出土している.
これが、東海道とか、北陸道とかいう言葉の起源になったようだが、これも同様の目的のためであろう.
ローマの場合、マリウスの軍制改革までは、兵役はローマ市民権を持つ者の義務であり、当時は、この市民権を属州にまでは広げられていなかった.
このため、すべての軍団の策源地はローマとなる.
したがって、すべての街道はローマを起点とすることになった.
ラ・フォンテーヌのようなフランス人にとっては「すべての道はローマに続く」だが、ローマ人にとっては、「すべての道はローマに始まる」なのである.
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(4)
Wikipediaに紀元117年頃のローマ帝国の主要街道の概略図が記載されている.
これを見ると、ローマから放射状に街道が伸びている様子が分かる.
特にローマ近郊ではそうである.
これは、目的地と最短距離で結ぶため、直線にこだわったからである.
しかし、ローマを離れると、ローマ以外の起点も生じている.
版図が広がり、属州の民にも市民権を与えたからである.
また、逆に市民権を持つ者に徴兵免除が与えられるようになり、オクタヴィヌスの時代には、親衛隊以外のすべての軍団は属州に置かれるようになる.
しかし、ローマを中心に街道が広がっていく構造は変わらなかった.
ただ、すべての目的地の起点をローマにする必要はなくなったので、分岐点を作って、そこから目的地に向かうようにした.
もっとも、都市間交通はそれほど重視されなかったので、街道が交差することは少なかった.
したがって、十字路は少なく、分岐点のほとんどが三叉路になる.
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(5)
孔子は、母親が死んだ時、五父之衢(ごほのちまた)に棺を持って行ったという話が「史記」に載っている.
孔子は、両親が野合して生まれたので、父親が誰かを知らなかった.
ところが、当時の中国では、両親を同じ墓に埋める風習があり、母親を埋める場所を探る必要があった.
五父は地名である.
孔子の生まれた山東省曲阜の近郊らしい.
曲阜ではなく、そこまで出かけていったのは、そこが衢だったからである.
衢は行構えに瞿である.
もともと、行という漢字は十字路を表していた.
昔のドイツ空軍機や陸軍の装甲車両にはバルケンクロイツと呼ばれる十字がついていたが、象形文字は、あの形である.
つまり、井から口の部分を取った形である.
これに、さらに多くの十字、つまり市中の通りをつけ加えたのが街という漢字である.
衛は、その十字路に番所を表す口に、その上下に足をつけて警備するという意味であった.
瞿は、鳥を表す隹と二つの目をつけたもので、鳥が目を見開いている様子である.
懼は心+瞿で、恐れる、驚くという意味になり、衢は行構えに瞿で、多くの人が通るのを驚くというところからできた漢字である.
したがって、衢は交通量の多い十字路である.
そこに出かけていったのは、情報を仕入れるのにも有利だろうし、
曲阜だと他人の耳に入るのを気にする人でも話してくれる人もいるだろうという考えからである.
実際、孔子は自分の父親に関する情報を仕入れ、母親を葬ることができたという.
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(6)
「宇治拾遺物語」という本がある.
「今昔物語」と並ぶ、説話集の代表だが、今は失われた「宇治大納言物語」という本があり、その拾遺というのが書名の由来とされる.
その中には、古今東西の様々な説話が収められている.
芥川龍之介が、この本の説話を基に「芋粥」や「地獄変」を書いたことで有名だが、昔話のわらしべ長者、雀の恩返し、こぶとりじいさん等の原型も載っている.
であるから、「宇治大納言物語」も、同様に雑駁な説話を集めたものであると想像されるが、だとすれば、これらの話をどうやって集めただろうか.
「宇治拾遺物語」の説話は、他の説話集と重なるものが多いから、「宇治大納言物語」においても、同様だったかもしれない.
しかし、そうではないかもしれない.
宇治が交通の要衝だからである.
宇治川の上流は瀬田川と呼ばれ、琵琶湖から下ってくる.
下流は、京都、大阪府境付近で木津川、桂川と合流して淀川となる.
道路よりも、水上交通のほうが主力だった当時の日本の大動脈である.
そして、北陸道は、宇治を通っていた.
宇治川と北陸道の交点には宇治橋が架かっているが、最初に架けられたのは646年、つまり大化2年である.
このため、この橋を日本最古とするものも多く、この地がいかに重要視されたかが分かる.
もちろん、丸太橋のようなものはあっただろうが、当時の日本の土木技術では、本格的な橋を架けるのは大変な難事業だったのである.
平安遷都以降、北陸道は奈良街道と名を変えるが、貴族の本拠は奈良に残されていたので、重要性は変わらなかった.
たとえば、藤原氏の場合、本拠地は奈良の春日大社であり、興福寺である.
当然、往還は激しい.
著者と目される宇治大納言源隆国が宇治に住んでいたかどうかは知らない.
しかし、何の関係もないのに宇治大納言と呼ぶことはないであろう.
そして、珍しい話を集めるのに宇治は好適の地である.
「宇治大納言物語」で初めて載った話もあったのではないかと思う.
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(7)
「カンタベリー物語」、「デカメロン」はヨーロッパ最古とされる小説である.
かたや、カンタベリー大聖堂への巡礼の途中、かたや、ペストを逃れてフィレンツェ郊外に引きこもった男女10人と、状況設定には違いはある.
しかし、どちらも出かけた先の物語である.
人の口に戸は立てられぬとはいうものの、旅は人の口を軽くする.
旅の開放感というものもあるだろうが、彼の地では有名な話でも、旅先では知られていない、珍しい話だからである.
ありふれたはずの話に聞き入る人が存在するのだ.
両書が、出かけた先の物語という共通項を持つのは、そこにある.
電話も、ネットもなく、それどころか、印刷技術が未発達であった時代、旅行する人も少なかった.
もちろん、やってくる人が少ない田舎では、見知らぬ人は警戒されるだろう.
しかし、たとえば、「まれびと」という言葉が象徴するように、外来者は歓迎される存在でもあった.
中でも、年に一、二回程度、定期的に訪れる人は、安心感もあるが、常に新しい情報を提供してくれるので歓迎された.
越中富山の薬売りが成功したのは、おまけだけが理由ではないのである.
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(8)
「すべての道はローマに続く」はイタリア語で"Tutte
le strade portano a Roma"で、viaではなくstrada(e)を使っている.
そして、イタリヤ語でviaは通りであり、街道はstradaである.
にもかかわらず、triviaはviaを使っている.
したがって、トリヴィアは3つの通りであり、3つの街道とはならないはずである.
ただ、帝国が建設した街道で、最も有名なアッピア街道のラテン名はVia
Appiaである.
他の街道も、viaを使っている.
つまり、本来、道を意味する語はviaであり、stradaは後から出現した言葉なのだろう.
貴様とか、お前(御前)とか、漢字を見ていると悪くない意味なのに、今日では罵倒する語に成り果てている.
本来、殿様と対で使われていた奥様は、単なる妻の地位になっている.
viaも、随分と親しみやすくなって、町の通りになってしまったが、本来は単なる「道」であろう.
そして、英語で「〜を経て」を意味するviaは、本来の意味に近いのだと思う.
また、"Via, via, via!"というイタリヤ語は「行け、行け、行け!」である.
トリヴィアは、三叉路、それも、街道の分岐点と考えるべきである.
そして、だとすれば、その数は限られる.
古代ローマの市街図を見ると、十数本の街道が掲載されている.
そのほとんどが三叉路になっているので、「古代ローマの都市において三叉路が多かった」というWikipediaの記述は、間違いではない.
しかし、「どこにでもある場所」、「ありふれた場所」というのはどうかと思う.
むしろ、三叉路は街道の合流点で、人々の集まる場所、情報が集まる場所としたほうが適当であろう.
そういう情報の中には、へぇー、そうなのという話もあるだろう.
トリヴィアの由来としては、そちらの方がよいように思う.
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(9)
トレヴィの泉は、「クイリナーレ宮殿の西側、スタンペリア通り沿いのトレヴィ広場」にあるとWikipediaには記されている.
つまり、通り沿いであって、三叉路ではない.
したがって、三叉路説にこだわるのなら、かつてはこの場所が三叉路だったか、泉が移転したかである.
実際、Wikipediaには、「元々は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが作らせたもので、
ヴィルゴ水道の終端施設としての人工の泉が場所を替えた後、今の位置になった」とある.
つまり、1762年にクレメンス12世の命によって再建された場所は、本来の場所とは異なるのである.
ただ、前回紹介した古代ローマの市街図に、泉は載っていない.
もっとも、市街図の真ん中上の方、Zと書いてあるところにあるAqua
Virgoがヴィルゴ水道で、
水道自体は点線で示されているので、本来のだいたいの場所は分かる.
中央やや上にある正方形、Campus Agrippae(アグリッパ広場)と書かれた所から通りを隔てた西側にあるT.D.Hadrianiは現在のアドリアーノ神殿である.
そして、通りを隔てた東南側に位置するThermae Constantinianae(コンスタンティヌス浴場)が現在のクイリナーレ宮殿である.
したがって、アグリッパ広場の南東角あたりが現在のトレヴィの泉であると思われる.
Wikipediaの「ヴィルゴ水道の終端施設」という言葉にこだわるなら、アグリッパ浴場Thermae
Agrippaeがその場所である.
この浴場自体は現存していないが、パンテオンの南に隣接するローマ初の公衆浴場である.
ただ、そこだと三叉路ではない.
そこで、もう少し範囲を広げると、ピンチアーナ街道Via Pinciana、ノメンターナ街道Via
Nomentanaと
フラミニア街道Via Flaminiaがこの辺りで交わっているのが目につく.
水道がアグリッパ広場を迂回するように巡っている南西の角である.
つまり、現在は残っていないこの広場の南西の角から南東角に移ったということである.
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(10)
アグリッパ浴場等に名を残すアグリッパは、アウグストゥスの右腕と言われた人物である.
アウグストゥスは病弱であり、軍事面の才能もあまりなかったと言われる.
代わりに軍を指揮したのがアグリッパである.
内乱の1世紀を終わらせたアクティウムの海戦も、実質的に彼が指揮している.
アウグストゥスの娘と結婚していることもあり、彼が早くに亡くならなければ、後継者にしたと言われる人物である.
と同時に、多くの建築物を建てた人物でもある.
浴場以外では、世界遺産にもなっているフランスのポン・デュ・ガールやパンテオンが有名な所であるが、ヴィルゴ水道の建設者でもある.
そして、水道より先に浴場が完成していることを考えると、「ヴィルゴ水道の終端施設」がこの付近にあった時期があっても不思議はない.
もし、この場所に建設されたのなら、三叉路の泉という名称になっても不思議はない立地である.
というのは、フラミニア街道は北方に向かう最重要の街道であり、ポー平原の小麦を運び入れる重要路であったからである.
つまり、軍事的にも、経済的にも、重要なこの街道の三叉路というのは、定冠詞をつけて呼んでもいいような場所であったのである.
だとすれば、三叉路の泉という平凡な名前も理解できる.
また、後ろ向きにコインをこの泉に投げ入れるとローマに戻ってこられるという話も、フラミニア街道を通って戦役に行かされた兵士の思いであったという可能性も出てくる.
生きて帰ってくるのだという深い願いがもとだったという可能性である.
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(補)
もっとも、Wikipediaのトレヴィの泉の項には、「かつて存在した地名トレビウムTrebiumに由来する」とも書かれている.
もっとも、トレビウムという地名自体が三叉路に由来するという.
というのは、ローマの東にあるヴィルゴ水道の水源地である泉が三叉路の近くだったからである.
また、トリヴィアのほうにも、この語の起源説として、別のものも記載されている.
中世の教養科目(リベラル・アーツ)のうち基本となる3つ(文法・修辞学・弁証法)のことをtrivium(三学)と呼んでおり、
その複数形がtriviaであったというのである.
リベラル・アーツとは、肉体労働から解放された自由民が学ぶべきとされた7教科であり、三学と四学quadrivium(算術、幾何、音楽、天文学)に分かれていた.
そして、この三学は「初歩的でつまらない」ものであったので、この意味が生じたともいうとある.
英語版のほうにも同様のことが書いてあり、しかも、三叉路説より先に載せられている.
これが正しいのなら、10回にわたって書いてきた私の駄文は意味をなさないことになるのだが、
あくまでも、一般的な説に基づいて書いたものと理解していただければ幸いである.
どちらにしろ、無駄な知識のことなのだから、目くじらを立てる人もいないと思うが.
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