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員弁八幡神社

三重県いなべ市員弁町下笠田

2004年6月19日、帝国陸海軍現存兵器リストに収められている員弁・八幡神社の砲弾と機雷を拝見しに出掛けてみた.

三重県の北端に位置するいなべ市は、2003年員弁Inabe郡員弁、大安、藤原の3町合併により生まれた同県14番目の市である.その位置的条件から名古屋のベッド・タウン化が進んでいるが、町並みを車で走ってみると昔ながらの田園風景が広がる.旧称の員弁郡員弁町の方が、三重県人である私には馴染みがある.

そののどかな風景の中を北勢線が走っている.762mm、ナロー・ゲージ(超狭軌)と呼ばれる狭い線路幅を持つ電車である.この形式は明治・大正時代に300路線以上も作られた軽便鉄道のそれだが、今や全国で近鉄(近畿日本鉄道)内部Utsube・八王子線(三重県四日市市)、黒部峡谷鉄道(富山県)のトロッコ電車とここの3路線しか残っていない.実際、この北勢線も1914年に北勢鉄道として開業したもので、紆余曲折を経て1965年に近鉄北勢線となった.その後、お定まりの赤字運営により廃線が決定したが、2003年に三岐鉄道に経営を譲渡されて現在に至っている.

その北勢線の線路の脇に問題の神社がある.踏切が境内の前にあるのだが、ナロー・ゲージと単線のおかげで、踏切は異様に短い.一歩でわたれる距離だが、それを渡るまでもなく、砲弾と機雷が見えている.拝殿の右側に砲弾、左に機雷で、ともに薄青くペイントされている.砲弾には「至誠」、機雷には「通神」の2文字を書いた黒い銘板が貼り付けてあり、機雷には「海軍中将和波豊一書」と署名されている.

お参りを済ませて砲弾から見る.思っていたより大きい.12インチ砲弾だと思っていたので1mのメジャーしか用意していない.ままよと円周を測ってみるが届かない.直径を計ってみる.36cm近い.14インチ砲弾である.金剛級巡洋戦艦扶桑級戦艦とその改良型である伊勢級戦艦に搭載された日本海軍の主力砲弾である.太平洋戦争にも参加した艦の砲弾が、なぜ奉納できたのだろうか.

機雷も巨大である.実物の機雷と言う物を見たのは始めてあるが、圧倒的な大きさである.そりゃ、1発で戦艦だって沈むと納得する.改めて、兵器と言うのは人を殺すためにあるのだと思う.その巨大さを数値にしようと思ったが、巨大な上に、台座の背が高いので、難しい.結局、拝殿に近い側の内側の円形の部分だけを計って、それでよしとする.内径で28cmある.この部分は全体の1/4程の大きさであるので、本体の直径は1mを越すかも知れない.

にお邪魔して海軍艦載砲の砲弾と言う労作を拝見すると、14インチ砲弾の全長は91式徹甲弾で1524.7mmだそうである.私の撮影した両方が写っている写真は、ポールと砲弾が重なっているので分かりにくいが、いろんな写真を比較してみた結果、砲弾の全長の半分以上の直径を有しているようである.

前記帝国陸海軍現存兵器リストに収められた橘神社、二号機雷台場公園、境港を拝見すると機雷部分の直径が74cmとある.形状は良く似ているが、橘神社のは蓋状に突出した部分があり、むしろ埼玉県さいたま市の大成館や新潟県長岡市悠久山蒼柴神社にある機雷の方が似ている.しかも、後者の直径は約90cmだそうなので、むしろこちらの方が近い.

そこでにお邪魔して、機雷一覧を覗いて見る.しかし、サイズが書いてない!ただ、台座に昭和11(1936)年9月の文字が刻まれてあるので、それより前なのは確かである.そうすると、候補は意外と少ない.3-5号機雷は2号機雷の炸薬強化型のようであるので、常識的に考えると同一寸法である.あとの多くは触角を持っているか、新しすぎる.残るは旧1号ならびに1号機雷であるが、形状が分からない.

ただ、1号機雷は軍機兵器である.日露戦争前の指定であろうが、海軍はお役所であるので、一旦軍機に指定したものを解除するとは思えない.その様な物を、民間の、それも人の自由に立ち入れる場に堂々と展示すると言うのは考えにくい.

「海軍、X:潜水艦・潜水母艦・敷設艦・砲艦」(1981年誠文図書刊行)に収められた林幸市大佐の回想(初出は雑誌「丸」1961年11月号)にこんな話がある.横須賀軍需部の課長が倉庫内を調査中、1号機雷を発見したというものである.頃は、太平洋戦争の始まるずっと前とあるので、この機雷が置かれたのとよく似た時期かも知れない.倉庫の奥に仕舞われた物が何かと案内の係官に聞いても分からない.最終的に機雷のエキスパートが1号機雷であると判定したそうだが、機雷の専門家でも実物を見たことがある人はほとんどなかったと言う.説明書も軍機に指定されていたので、存在を知っている人も少なかったと言う.

なぜか.これが通常の機雷ではなかったからである.機雷は、海底に設置された基部(繋維器)から鋼索(繋維索)に引っ張られて海中に留まっている.1号機雷は逆である.海上に漂う基部から海中にぶら下がっているのである.したがって、海流の影響を受ける.浮遊機雷と呼ばれる所以だが、日本海軍は6ヶ1組を繋いで使用する計画であった.6ヶ1組としたのは、相手艦隊の航路上に急速敷設しようとしたからであり、計画とあるのは使用されなかったからである.

日露戦争中の1904年4月13日、旅順を出撃したロシア艦隊旗艦ペトロパヴロフスクは日本が敷設した機雷に触れ、マカーロフ提督とともに沈没した.このことから、日本海軍では機雷の研究が進んだ.そして、64種に及ぶ案の中から選ばれたのが1号機雷の原型である.設計は急速に進み、第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)が来航した時には出来上がっていたが、使用に適する状況は生まれなかった.

なお、1号機雷と言う名称は1916年4月に定められたもので、当初は連携水雷と呼ばれていた.6ヶ1組だったからだが、効果的に使用するには相手航路の前方に網の様に広げる必要があった.さらに相手側が針路を変更しない事が肝要であったが、そのような状況が生まれるであろうか.日本側が針路の直前を横切り、何かを投棄して行った.浮遊機雷と思わないまでも、変針しない方がおかしい.そこで、軍機兵器にして少しでも相手側が疑念を抱かないようにした.しかし、そこまで

横須賀の三笠艦上に陳列されている機雷がそうかも知れないが、即断は出来ないし、第一形状が異なる.

以下はSUDO氏から

「二、三、四、五号は触角無いんです.うち二号と四号は球状です.また浮遊の一号は何種類かありますが球状ではないです.銀杏型ないし蝉型とされてます.また二号は74cm、三号は74x93.4cmの茄子型、四号は83x86.9のほぼ球状、六号系は105x115cmぐらいの球状、七号、89式/93式が86x86cmの球状です.触角の有無は展示用として外した可能性もあると考えられますので、サイズと形状から四号か89/93式系に絞れると考えます.また繋維鎖が三本あることから89/93は1本、四号は3本なので、恐らく四号でしょう(これなら触角も無いですし).ちなみに、四号機雷のサイズは830x869mm」

アジア歴史資料センターの記録を調べていたら、リファレンス・コードC05023084700に三重県員弁郡三里村三里尋常高等小学校に下付された機雷の記録が見つかった.1933.9/4に呉海軍軍需部保管の浮標水雷缶1ヶを同小学校の備品として下付せよという海軍大臣の訓令が出ているのだ.この浮標水雷缶がくだんの機雷かどうかは分からないが、可能性は高いと思う.

なお、砲弾についての記録は見つからなかったので、破棄されたか、未公表なのだろうと思う.


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