徳洋記念碑
Oh! Net(奥尻町役場企画振興課).
「Where?
観光案内奥尻島-南部」より転載.
1880(明治13)年7月17日、イギリス中国方面艦隊旗艦アイアン・デュークは函館から小樽へ航行中、おりからの濃霧により北海道後志国(現檜山支庁)奥尻郡奥尻島南端の青苗岬に座礁した.
同艦に1879.7以降、少尉候補生として乗艦していた有栖川宮威仁親王は青苗に上陸し村民を指揮して救助に従事した.
親王は当時19歳、1862(文久2)年1月13日、有栖川宮熾仁Taruhito、1835-95親王の第4王子稠宮Sawanomiyaとして生まれ、1874(明治7年)年7月8日皇族として初めて海軍兵学校に入り、1879年7月26日の乗艦命令により8月6日函館で同艦に乗り組んでいた.
有栖川宮家は1625(寛永2)後陽成天皇の皇子好仁親王が高松宮を称したことに始まり67(寛文7)年同家を継承した後西天皇の皇子幸仁親王が72(寛文12)年に有栖川宮家と改称したものであった.
父である第9代有栖川宮熾仁親王は和宮降嫁で有名な孝明天皇の妹和宮Kazunomiya、1846-77の本来の許婚だった人物で、戊辰戦争では官軍の総司令官として江戸城を目指し、俗謡に「宮さん、宮さん」と歌われることになる.
1880(明治13)年12月1日、威仁親王はイギリスに留学、翌年10月からイギリスの海軍大学校で学び、83(明治16)年2月8日、帰国命令を受けて帰朝後葛城、高雄、千代田艦長、横浜鎮守府海兵団長、松島、橋立艦長を経て96(明治29)年11月5日海軍少将に昇進し常備艦隊司令官99(明治32)年中将となり1901(明治34年)11月29日休職04(明治37)年6月28日海軍大将13(大正2)年危篤状態となり7月7日元帥に叙せられたが同月10日、51歳で死去した.
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徳洋記念碑は1931.7/6同事件50周年を記念して皇室の菊の紋章をかたどった台座に高松宮宣仁Takamatsunomiya
Nobuhito親王の「洋々美徳」の文字と小笠原長生退役海軍中将撰書による碑文を刻んだ高さ18mの記念碑で10/25除幕された
93.7/12北海道南西沖地震で青苗地区は最大の被害を受けたが、碑のみは残った.

被災直後の青苗5区 復旧後の青苗緑地
岬の先端部、やや上側に建っているのが「徳洋記念碑」
「漁港漁村漁港漁村ホームページ、漁港情報」北海道奥尻町青苗地区
Part1(青苗岬緑地)より転載.
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参考
奥尻町年表
船のお医者さん所収の有栖川宮最後の威仁親王(1)
Since 8 Feb.
2002.
Last up-dated
24 Nov. 2013.




The Encyclopedia of World ,Modern Warships.
#15a
HMS Iron Duke
(徳洋記念碑).
Ver.1.13a.
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