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香取級練習巡洋艦について

 1931年8月14日竣工したフランスの練習巡洋艦ジャンヌ・ダルクは、海軍の行う練習航海に一石を投じるものであった.多数の士官候補生を乗艦させるため、客船を思わせる優美な甲板室を持つこの艦が新造艦であったからである.

 従来、どこの海軍でも練習航海には旧式艦を充当していた.フランス海軍でも1905年に竣工した装甲巡洋艦で、同じくジャンヌ・ダルクと言う名を持つ艦を使用してきていた.しかし、専用の新造艦を建造した方が効率が良いのは当然である.しかも、タービンやディーゼルが中心となってきたこの時代、レシプロ機関しか持たない旧式艦では学ぶ意味が少ない.事故の危険性もある(1).

 同年6月、日本海軍がこの練習巡洋艦と言う艦種を新設したのは、このような見通しの上に立ってのことであっただろう.ただ、艦種を新設しただけで、類別された艦はない.欲しいが予算がなかったのである.戦闘用艦艇の建造はできても、このような艦艇を建造できるほど日本は豊かではなかったのだ.

 その結果、日本も列国と同じく旧式艦を使って遠洋航海を実施せざるを得なかった.1899年から1901年にかけてイギリス、ドイツ、フランスで建造した6隻と、1904年、イタリアで建造中に購入した2隻の装甲巡洋艦である.1904-5年の日露戦争では最新鋭の8隻であったが、この時点では艦齢20年を超え、艦によっては30年に達していた.

 1935年10月14日、このうちの1隻である浅間は瀬戸内海で座礁、大破して係留練習艦となった.同年、日進が解役され、砲弾実験に使用中に転覆して失われた.常磐は機雷敷設艦に改造されており、艦隊旗艦として出雲が中国に派遣、春日吾妻はすでに遠洋航海に使用するには無理があった(2).このため、使用可能なのは八雲磐手の2隻のみであったが、これとていつまでも使用可能と言うわけではなかった(3).本来ならば、その後に建造された大型装甲巡洋艦群がこの任務に就くべきであっただろうが、12インチ砲を搭載していたので、軍縮条約により主力艦と判断され、廃棄済みであった.

 1937年1月1日、海軍軍縮条約の失効ととともに各国は海軍力の増強に突き進んだ.日本も例外ではない.同年、議会を通過したB計画と通称される海軍補充計画は、大和級戦艦2隻を含む70隻の艦艇を建造しようと言う野心的なものであった.予算総額は当初額で8億654万9000円.国家予算の3%に達する巨額であった(4).

 しかし、この中にも練習艦の建造計画はない.海軍が増強されれば、当然、人間も増える.しかも、指揮官の育成は一朝一夕には出来ない(5).海軍兵学校の募集人数は急造したが、練習航海に使用できる艦がない.そこで、海軍は5500t型巡洋艦の転用を考えたが、同年7月7日の盧溝橋事件で日中間に戦争が巻き起こった.その結果、戦闘艦艇が必要になったため、新造する事になり、翌1938年のB追加計画で日本初の練習巡洋艦2隻の建造が認められた(6).

 ただし、総額660万円と予算は大いに削られた.2隻の建造であるから1隻当たり330万円となる.戦艦大和の建艦予算1億2898万3091円はもちろん、巡洋艦だと言うのに駆逐艦1隻の建造費968万よりなお少ない(7).当然、ありとあらゆる部分で予算内に収まるように遣り繰りされたが、他の艦より豪華にした部分がある.

 内装である.

 練習航海に使用するのだから、他の国に寄港する事は想定しなければならない.当然、賓客を迎える場合もある.歓迎式典、食事会、舞踏会なんてものも考えなければならないだろう(8).その時、立派な艦であると思ってもらわなくてはいけない.間違っても貧粗な船であったなんて感想を持たれたら国の恥である.したがって、内装を立派にした.特に司令官室等は、それまでの日本艦にはない立派さであったと言う.また、外観も出来るだけ立派に見えるようにと要求された.また、多くの士官候補生が乗るのと、長期間の行動が必要になってくるのだから、それなりの居住性も必要である.

 しかし、それ以外の部分はバッサリと切り捨てた.

 まず、装甲がない.駆逐艦や潜水艦クラスだと余裕がないので、装甲がないのは普通だが、「練習」と言う言葉がついているものの、これは巡洋艦である.軍艦なのだ(9).創生期はいざ知らず、舷側装甲も持たずに竣工した巡洋艦は、多分、日本海軍には他にない.ジャンヌ・ダルクが弾薬庫等以外には装甲を持たなかったのに影響されたのかも知れない.

 

(8)この艦の甲板が木甲板であったのは、居住性と見栄えを考えたからだろうと思われるが、舞踏会と言うような用途も視野に入れていたのかも知れない.もっとも主たる原因は少しでも安くするためではなかったかと思われる(他の巡洋艦がリノリウムを採用したのは、重量軽減のためであろう).

(9)旧日本海軍では、駆逐艦や潜水艦等は「軍艦」の範疇に入れていなかった(1900-5年を除く).したがって、艦長ではなく駆逐艦長、潜水艦長であり、階級も大佐(以上)ではなく、中佐、少佐であった(大尉と言う場合もあった).また、正規の「軍艦」の艦首には必ず飾られていた菊の紋章もなく、副長や主計長と言った役職も存在しなかった.

(10)ここで、商船構造と艦艇構造と言う言葉を思い浮かべる人がいるかも知れない.ただ、この言葉を使うと、商船の構造は弱く、軍艦は強いのだと思われる方が多いような気がしたので避けた.

それから、武装はついているが士官候補生が練習するのに必要な数だけ、ただし様々な兵器に慣れると言う目的があったので何種類かを搭載した.そして、軍艦、特に巡洋艦等と言うものは高速が発揮できるものだが、

 また、船体の構造が軍艦式ではない(10).軍艦と言うのは戦闘を目的とする船のことであるから、経済性は度外視しても

(1)1890年9月26日、トルコ練習艦エルトゥールルは和歌山県樫野崎沖で座礁事故により沈没し乗艦していた多くの士官候補生が死亡した.同艦は1854年建造の老朽艦であり、その航海は苦難そのものであったと言う.

(2)吾妻については、搭載していたベルヴィーユ式ボイラーの不調が伝えられており、これが早期の係留につながったのではないかと思われる.

(3)もっとも、これらの装甲巡洋艦の多くは戦時中も保有されており、吾妻が戦時中に解体された以外は敗戦直前の空襲によって失われるまで係留状態ながら生きながらえ、唯一使用可能だった八雲に至っては戦後の復員輸送に使用された後に解体された.

(4)艦を造っても、その艦を動かす人員や燃料が必要であり、修理費も必要ならば砲弾や航空機、さらには基地も工場も必要である.この金額はあくまでも新造に必要な金額のみである.

(5)海軍兵学校を卒業して1年後に少尉に任官する.その後、2年間の勤務を経て中尉、さらに3年後に大尉となるが、少佐になるにはさらに6年間が必要であった.しかも、これは実役定年と呼ばれる最低勤務期間で、年数を経たから昇進と言うものではない.なお、これは平時の場合であり、太平洋戦争時には士官不足から大幅にこの期間が短縮された.参考までに、実役定年を平時、戦時(太平洋戦争時)に分けて記しておく.

  少尉 中尉 大尉 少佐 中佐 大佐 少将 中将 大将

平時 2年  3年  6年  3年  4年  6年  4年 定めず

戦時 1年 1.5年  4年  2年  2年  2年  3年 定めず

 したがって、軍艦の艦長である大佐の階級には少尉任官後平時で最低18年間、戦時でも最低10.5年間の勤務が必要と言う事になる.

 艦と運命を共にすると言う風潮が、人命軽視と言う視点以外にも、いかに平時の努力やそれにかかった金額を無にするかがよく分かると思う.

(6)当初の要求は3隻であったようである.なお、この追加計画では他に給糧艦伊良湖の建造費として400万円が認められている.間宮1隻で艦隊をまかなうしかなかった海軍にとって、給糧艦の建造は切実な問題であった.しかし、練習巡洋艦にしてもそうだが、この種の艦艇の重要性は仲々理解されなかった.

(7)表向き、大和の建造費は9800万円であったが、姉妹艦武蔵の分も合わせて駆逐艦3隻分(2700万円)と潜水艦1隻分(1218万円)は同艦の建造に流用されることになっていた.これに合計すると1隻当たり1億1759万円となるが、物価高騰にともなう建造費拡充で予算はさらに増えた.具体的には、単艦予算で1億793万3075円、これに上記の駆逐艦3隻(2903.8万円)と潜水艦1隻(1306.2万円)の半分を加えたのがこの数字である.また、駆逐艦(陽炎級)の建造費は拡充後の金額から算出した.

 ちなみに1934年度補助艦艇補充計画(A計画)で建造された利根級巡洋艦が1隻3126万5000円、次の1939年度艦艇充実計画(C計画)で建造された阿賀野級巡洋艦が1隻2640万円、大淀級巡洋艦が1隻3116万円となっている.

なお、この数字は

ねこくち様の労作Die Kriegs Wirtschaft 戦争経済に収められた「@計画艦の値段」掲載のものを採用しております.


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